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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 胡弓夫人(二)
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彼の身のまはりの役は、遠征の陣中なので、甥の曹安(サウアン)(ママ)が勤めてゐた。
「曹安。おまへにも聞えるだらう。——あの胡弓の音(ね)が」
「はい。ゆうべも、夜もすがら、哀しげに弾(ひ)いてゐたやうでした」
「誰だ?いつたい、あの胡弓を弾いてゐる主は」
「妓女(ギジヨ)ではありません」
「おまへは、知つてゐるのか」
「ひそかに、垣(かき)間(ま)見(み)ました」
「怪(け)しからんやつだ」
曹操は、戯れながら、苦笑してなほ訊ねた。
「美人か、醜女か」
「絶世の美人です」
曹安は、大真面目である。
「さうか、……そんな美人か……」
と、曹操は、酒の香をほツと吐いて、春の夜らしい溜息をついた。
「おい。連れて来い」
「え。……誰をですか」
「知れたことを訊くな。あの胡弓を奏でてゐる女をだ」
「……ところが、生憎(あいにく)と、あの美女は、未亡人ださうです。張繡の叔父、張済が死んだので、この城へ引きとつて張繡が世話をしてゐるのだとか聞きました」
「未亡人でも関(かま)はん。おまへは口をきゐたことがあるのだらう。これへ誘つて来い」
「奥郭(おくぐるわ)の深園にゐる御方、どうして、私などが近づけませう。言葉を交(かは)したことなどありません」
「では——」と、曹操はいよいよ語気に熱をおびて、いひつけた。
「額盔(ひたひかぶと)の兵、五十人を率ゐて、曹操の命なりと告げて、中門を通り、張済の後家に、糺(たゞ)すことあれば、すぐ参れと、伴つて来い」
「はいつ」
曹安民は、叔父の眼光に、嫌ともいへず、あわてゝ出て行つたが、暫くすると、兵に囲ませて、一人の美人をつれて来た。
帳外の燭は、ほのかに閣の廊に揺れてゐた。
曹操は、佩剣を立てゝ、柄頭(つかがしら)のうへに、両手をかさねたまゝ凝(じつ)と立つてゐた。
「召しつれました」
「大儀だつた。おまへ達はみな退がつてよろしい」
曹安民以下、兵たちの跫音(あしおと)は、彼方の衛舎へ遠ざかつて行く。——そして後には、悄然たるひとりの麗人の影だけが、そこに取り残されてゐた。
「夫人、もつと前へおすゝみなさい。余が曹操だ」
「……」
彼女は、ちらと眸をあげた。
なんたる愁艶(シウエン)であらう。蘭花に似た瞼(まぶた)は、ふかい睫毛(まつげ)を俯(ふ)せておのゝきながら曹操の心を疑つてゐる。
「怖れることはない。すこしお訊ねしたいことがある」
曹操は、恍惚と、見まもりながら云つた。
傾国の美とは、かういふ風情(フゼイ)をいふのではあるまいか。——夫人は、俯(うつ)向(む)いたまゝ歩を運んだ。
「お名まへは。姓は?」
重ねて問ふと、初めて
「亡き張済の妻で……鄒(チウ)氏といひまする」
微(かす)かに、彼女は答へた。
「余を、御存じか」
「丞相のお名まへは、かねてから伺つてをりますが、お目にかゝるのは……」
「胡弓をお弾きになつてをられたやうだな。胡弓がおすきか」
「いゝえ、べつに」
「では何で」
「餘りのさびしさに」
「おさびしいか。おゝ、秘園の孤禽(コキン)は、さびし/\と啼くか。——時に夫人、余の遠征軍が、この城をも焼かず、張繡の降参をも聞き届けたのは、如何なる心か、知つてをられるか」
「……」
曹操は、五歩ばかりづかづかと歩いて、いきなり夫人の肩に手をかけた。
「……お分りか。夫人」
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次回 → 胡弓夫人(四)(2024年9月12日(木)18時配信)