吉川英治『三国志（新聞連載版）』（312） 胡弓夫人（こきうふじん）（二）

昭和15年（1940）9月11日（水）付掲載（9月10日（火）配達）

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連載第95回　→　乱兆（一）

（全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載）

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　この許昌へ遷都となる以前、長安に威を振つてゐた旧（もと）の董相国の一門で張済という敗亡の将がある。

　先頃から董一族の残党をかりあつめて、

　王城復古

　打倒曹閥

　の旗幟（キシ）をひるがへし、許都へ攻めのぼらうと企てゝゐた一軍は、その張済の甥にあたる張繡（チヤウシウ）といふ人物を中心としてゐた。

　張繡は諸州の敗残兵を一手に寄せて、追々（おひ／＼）と勢威を加へ、又、謀士賈詡を参謀とし、荊州の太守劉表と軍事同盟をむすんで、宛（ヱン）城を根拠としてゐた。

「捨ておけまい」

　曹操は、進んで討たうと肚（はら）をきめた。

　けれど彼の気がゝりは、徐州の呂布であつた。

「もし自分が張繡を攻めて、戦が長びけば、呂布は必ず、その隙に乗じて、玄徳を襲ふであらう。玄徳を亡（ほろぼ）した勢ひを駆つて、更に許都の留守を襲撃されたら堪（たま）らない——」

　その憂（うれひ）があるので、曹操がなほ出陣をためらつてゐると、荀彧は

「その儀なれば、何も思案には及びますまい」

　と、至極、簡単にいつた。

「さうかなあ。餘人は恐るゝに足らんが、呂布だけは、目の離せない曲者（くせもの）と余は思ふが」

「ですから、与（くみ）し易しといふこともできませう」

「利を喰（くら）はすか」

「さうです。慾望には目のくらむ漢（をとこ）ですから、この際、彼の官位を昇せ、恩賞を贈つて、玄徳と和睦せよと仰つしやつてごらんなさい」

「さうか」

　曹操は、膝を打つた。

　すぐ奉車都尉（ホウシヤトヰ）の王則（ワウソク）を正式の使者として、徐州へ下し、その由を伝へると、呂布は思はぬ恩賞の沙汰に感激して、一も二もなく曹操の旨（むね）に従つてしまつた。

　そこで曹操は、

「今は、後顧の憂（うれひ）もない」

　と、大軍を催して、夏侯惇を先鋒とし、宛城へ進発した。

　淯水（河南省・南陽附近）のあたり一帯に、十五万の大兵は、霞のやうに陣を布いた。——時、すでに春更（た）けて建安二年の五月柳塘（リウタウ）の緑は嫋々（デウ／＼）と垂れ、淯水の流れは温（ぬる）やかに、桃の花びらがいつぱい浮いてゐた。

　張繡は、音に聞く曹操が自らこの大軍をひいて来たので、色を失つて、参謀の賈詡に相談した。

「どうだらう、勝ち目はあるか」

「だめです。かう曹操が全力をあげて、攻勢に出て来ては」

「では、どうしたらいゝか」

「降服あるのみです」

　さすがに賈詡は目先がきいてゐる。張繡にすゝめて、一戦にも及ばぬうち降旗を立てゝ自身、使（つかひ）となつて、曹操の陣へ赴いた。

　降服に来た使者だが、賈詡の態度は甚だ立派であつた。のみならず辯舌すゞやかに、張繡のために、歩（ブ）のよいやうに談判に努めたので、曹操は、賈詡の人品に一方ならず惚れこんでしまつた。

「どうだな、君は、張繡の所を去つて、余に仕へる気はないか」

「身にあまる面目ですが、張繡もよく私の言を用ひてくれますから、棄てるにしのびません」

「以前は、誰に仕へてゐたのかね」

「李確（ママ）に随身してゐました。しかしこれは私一代の過（あやまち）で、その為、共に汚名を着たり、天下の憎まれ者になりましたから、猶更（なほさら）、自重してをります」

　宛城の内外は、戦火をまぬがれて、平和のための外交がすゝめられてゐた。

　曹操は、宛城に入つて、城中の一郭に起居してゐたが、或る夜のこと、張繡等と共に酒宴に更けて、自分の寝殿へ帰つて来たが、ふと左右を顧みて、

「はてな？。この城中に美妓がゐるな。胡弓の音がするぞ」

　と、耳をすました。

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次回　→　胡弓夫人（三）（2024年9月11日（火）18時配信）