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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 馬盗人(三)
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張飛と関羽のふたりは、殿軍(しんがり)となつて、二千餘騎を県城の外にまとめ、
「この地を去る思ひ出に」
とばかり、呂布の兵を踏みやぶり、その部将の魏続(ギゾク)、宋憲などに手痛い打撃を与へて、
「これで幾らか胸がすいた」
と、先へ落ちて行つた劉玄徳のあとを追ひ慕つた。
時は、建安元年の冬だつた。
国なく食なく、痩せた馬と、うらぶれた家の子郎党をひき連れた劉玄徳は、やがて許昌の都へたどり着いた。
曹操は併(しか)し、決してそれに無情ではなかつた。
「玄徳は、わが弟分である」
と云つて、迎ふるに賓客の礼を執り、語るに上座を譲つてなぐさめた。
なほ、酒宴をまうけて、張飛や関羽をもねぎらつた。
玄徳は、恩を謝して、日の暮(くれ)がた相府(シヤウフ)を辞し、駅館へひきあげた。
すると、その後ろ姿を見送りながら、曹操の腹心、荀彧は、
「玄徳はさすがに噂にたがはぬ人物ですな」
と、意味ありげに、独り言をもらした。
「むゝ」
と頷(うなづ)いたのみで曹操が黙然としてゐると、荀彧はその耳へ顔を寄せて、
「彼こそ将来怖るべき英雄です。今のうちに除いておかなければ、ゆく末、あなたに取つても、由々しい邪魔者となりはしませんか」
と、暗に殺意を唆(そゝ)つた。
曹操は、何か、〔びく〕としたやうに、眼をあげた。その眸は、赤い熒光(ケイクワウ)を放つたやうに見えた。
ところへ、郭嘉が来て、曹操からその相談をうけると、
「とんでもない事です——」と云はんばかりな顔して、すぐ首を横に振つた。
「彼がまだ無名のうちならとにかく、すでに今日では、義気仁愛のある人物として、劉玄徳の名は相当に知られてゐます。もしあなたが、彼を殺したら、天下の賢才は、あなたに対する尊敬を失ひ、あなたの唱へて来た大義も仁政も、噓としか聞かなくなるでせう。——一人の劉備を怖れて、将来の患を除くために、四海の信望を失ふなどは、下の下策といふもので、私は絶対に賛成できません」
「よく申した」
曹操の頭脳は澄明(ちやうめい)である。彼の血は熱しやすく、時に、又濁りもするが、人の善言をよくうけ入れる本質を持つてゐる。
「余もさう思ふ。むしろ今逆境にある彼には、恩を恵むべきである」
と云つて、やがて朝廷に上つた日、玄徳のため、豫州(河南省)の牧を奏請して、直(たゞち)に任命を彼に伝へた。
更に。
玄徳が、任地へおもむく時には、兵三千と糧米一万斛(ゴク)を贈り、
「君の前途を祝す余の寸志である」
と、その行を盛(さかん)にした。
玄徳は、かさね/゛\の好意に、深く礼をのべて立つたが、別れる間際に、曹操は、
「時来れば、君の仇を、君と協力して討ちに行かう」と、さゝやいた。
勿論、曹操の胸にも、いつか誅伐の時をと誓つてゐるのは、呂布といふ怪雄の存在であつた。
「……」
玄徳は、易易として、何事にも微笑を持つてうなづきながら任地へ立つた。
ところが、曹操の計画だつた呂布征伐の実現しないうちに、意外な方面から、許都の危機が伝へられ出した。
許都は今、天子の府であり、曹操は朝野の上にあつて、宰相の重きをなしてゐる。
「この花園を窺(うかゞ)ふ賊は何者なり乎(や)!」
と、彼は憤然と、剣を杖として立ち、刻々、相府へ馳けこんでくる諜報員の報告を、厳しい眼で聞きとつた。
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次回 → 胡弓夫人(二)(2024年9月10日(火)18時配信)