吉川英治『三国志（新聞連載版）』（308） 馬盗人（うまぬすびと）（一）

昭和15年（1940）9月6日（金）付掲載（9月5日（木）配達）

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連載第95回　→　乱兆（一）

（全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載）

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　次の日、陳珪は、また静かに、病床に横臥してゐたが、つら／＼険悪な世上のうごきを考へると小沛にゐる劉玄徳の位置は、実に危険なものに思はれてならなかつた。

「呂布は前門の虎だし、袁術は後門の狼にも等しい。その二人に挟まれて居ては、いつかきつと、その何（いづ）れかに喰はれてしまふに極（きま）つている」

　彼は心配のあまり、病床で筆をとつて、一書をしたゝめ、使（つかひ）を立てゝ呂布の手もとへ上申した。その意見書には、かういふ献策が書いてあつた。

　近ごろ、老生の聞く所によると、

　袁術は、玉璽を手にいれ、不日

　天子の称を冒さんとしてゐる由

　です。

　明（あきら）かな大逆です。

　この際、あなたとしては、御息

　女の輿入（こしいれ）をお見合わせになつたの

　を幸（さいはひ）に、急兵を派して、まだ

　旅途にある使者の韓胤（かんいん）を搦（から）め捕

　り、許都の朝廷へさし立てゝ、

　順逆を明かにして置くべきでは

　ありませんか。

　曹操は、あなたの功を認めるで

　せう。あなたは、官軍たるの強

　みを持ち、曹操の兵を左翼に、

　劉玄徳を右翼として、大逆の賊

　を討ち掃（はら）ふべきです。

　今こそ、その秋です。

　曠世の英名をあげて、同時に一

　代の大計をさだめる今を、むな

　しく逸してはいけません。かう

　いふ機会は、二度と参りますま

　い。

「……あなた、何を考へこんでいらつしやるのですか」

　妻の厳氏は、呂布の肩ごしにそれをさし覗（のぞ）いて陳珪の意見書を共に読んでしまつた。

「いや、陳珪の云ふところも、一理あるから、何（ど）うしようかと思案してゐたのさ」

「死にかけてゐる病人の意見などに動かされて、折角の良縁を、あなたは破棄してしまふおつもりですか」

「むすめは、何（ど）うしてゐるね」

「泣いてをりますよ、可哀さうに……」

「弱つたなあ」

　呂布はつぶやきながら、吏士たちの詰（つめ）てゐる政閣のほうへ出て行つた。

　すると何事か、そこで吏士たちが躁（さわ）いでゐた。

　侍臣に訊かせてみると、

「小沛の劉備が、どこからか、続続と、馬を買ひこんでゐると云つているのです」

　と、告げた。

　呂布は、大口あいて笑つた。

「武将が、馬を買入れるのは、いざといふ時の心がけで、何も、目に〔かど〕を立てゝ躁（さわ）ぐこともあるまい——わしも良馬を集めたいと思つて、先ごろ、宋憲（ソウケン）以下の者共を山東へつかはしてあるが、彼等も、もう帰つてくる時分だらう」

　それから三日目だつた。

　山東地方へ軍馬を求めに出張してゐた宋憲と、その他の役人共は、まるで狐にでも憑（つま）まれたやうな恰好（カツカウ）で、ぼんやり城中へ帰つて来た。

「軍馬はたくさん集めて来たか。さつそく逸物を五、六頭曳いて見せい」

　呂布がいふと、

「申（まをし）訳（わけ）ございません」

　と、役人共は、彼の怒りを恐れながら、頭をすりつけて答へた。

「名馬三百匹をひいて、一昨夜、小沛の境までかゝりました所、一団の強盗があらはれて、そのうち二百頭以上の逸物ばかり奪ひ去つてしまひました。……われ等、きのふも今日も、必死になつて、後をさがしましたが、山賊共も、馬の群も、まつたく行方がわかりませんので、むなしく、残りの馬だけ曳いて、一（ひと）先（ま）づ立ち帰つて参りました」

「なに、強盗の一団に、良馬ばかり二百頭も奪はれてしまつたといふのか」

　呂布の額には、さういふうちにもう青筋が立つてゐた。

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次回　→　馬盗人（二）（2024年9月6日（金）18時配信）