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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 花嫁(四)
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陳珪(チンケイ)は、老齢なので、息子の邸(やしき)で病を養つてゐた。
彼の息子は、劉玄徳の臣、陳之龍(チンシレウ)であつた。
「なんだね、あの賑やかな鼓楽は?」
病室に侍(かしづ)いてゐる小間使(こまづかひ)が、
「御隠居さまには、まだ御存じないんですか」
と、徐州城を出た花嫁の行列が、遠い淮南へ立つてゆくのを、町の人たちが今、歓呼して見送つてゐるのですと話した。
すると、陳珪は、
「それは大変ぢや、かうしては居られない」
と、病室から歩み出し、
「わしを驢に乗せて、お城まで連れてゆけ」
と、云つて、何(ど)うしても肯(き)かなかつた。
陳珪は、息をきりながら徐州城へ上つて、呂布へ目通りを希(ねが)つた。
「病人のくせに、何で出て来たのか。祝ひになど来ないでもいゝのに」
と、呂布が云ふと、
「あべこべです」
陳珪は、強くかぶりを振つて、云ひ出した。
「——あなたの御臨終もはや近づいたので、今日は、お悼(くや)みをのべに上りました」
「老人。おまへは、自分のことを云つてゐるのぢやないか」
「いゝえ、老病のわたくしよりもあなたの方が、お先になりました」
「何を、ばかな」
「でも、命数は仕方がございません。御自分で、冥途へ冥途へと、自然、足をお向けになるんですから」
「不吉なことを申すな。このめでたい吉日に」
「けふが吉日とお考へになられるのからして、もう死神につかれてゐるのです。——なぜならば、こんどの御縁談は、袁術の策謀です。あなたに、劉備といふ者がついてゐては、あなたを亡す事ができない為、まづ御息女を人質に取つておいて、それから劉備のゐる小沛へ攻め寄らうとする考へなのです」
「…………」
「劉備が攻められても、今度はあなたも、劉備へ加勢はできますまい。彼を見殺しにすることは、御自身の手脚がもがれて行くことだとお思ひになりませんか」
「…………」
「やれ/\、ぜひもない!……怖(おそろ)しいのは、人の命数と、袁術の巧妙な策略ぢや」
「ウーム……」
呂布はうなつてゐたが、やがて陳珪をそこへ置き放したまゝ、大股にどこかへ出て行つた。
「陳宮つ。陳宮!」
閣の外に、呂布の大声が聞えたので、何事かと、陳宮が詰所から走つてゆくと、その面を見るなり、呂布は、
「浅慮(あさはか)者(もの)め。貴様はおれを過(あやま)らせたぞツ」
と、呶鳴りつけた。
そして遽(にはか)に、騎兵五百人を庭上へ呼んで、
「姫の輿(こし)を追ひかけて、すぐ連れもどして来いつ。——輿入(こしいれ)は中止だ」
と、云ひわたした。
呂布の〔むら〕気はいつもの事だが、これにはみんな泡をくつた。騎兵隊は、即刻、砂けむりあげて、花嫁の行列を追つて行つた。
呂布は、書面を認(したゝ)めて、
「昨夜から急に、むすめが軽恙(ケイヤウ)で寝ついたので、輿入の儀は、当分のあひだ延期と御承知ねがひたい」
と、袁術の方へ、早馬で使をやつた。
病人の陳珪老人は、その夕方まで城内にゐたが、やがてトボ/\驢の背にのつてわが家へ帰りながら、
「あゝ、これで……伜(せがれ)の御主君のあぶない所が助かつた」
と、〔まばら〕な髯(ひげ)のなかで、独りつぶやいてゐた。
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次回 → 馬盗人(うまぬすびと)(一)(2024年9月5日(木)18時配信)