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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 花嫁(一)
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【前回迄の梗概】
後漢末献帝の御代、乱世に乗じて群雄が各地に割拠したが、山東の地に勢威を振ふ曹操はその第一であつた。彼は献帝を擁し天下に号令せんものと虎視眈々としてゐるが、最も目障りである徐州の玄徳及びその客将呂布を滅さんとし、勅命を以て二者を闘はせ漁夫の利を得んとするが、その結果は呂布が徐州の主となつて玄徳に代つたに過ぎなかつた。一方江南の奸雄袁術の食客として脾肉を歎じてゐた長沙の太守孫堅の遺子孫策は伝国の玉璽を抵当として袁術から三千の兵を借り失地回復の計をたて江東に陣を進めた。第一戦に先づ叔父の敵である揚州の刺史劉繇を荊州に追ひその勇将たりし太史慈を部下とした彼は息つぐ間もなく兵を南に進め東呉の厳白虎を楓橋に破り、会稽の太守王朗を海隅に走らせて了つた。江東八十一州を瞬時にして平定小覇王の名は天下に響いたが、こゝに安からざるは袁術であつた。江東に討たんには先づ呂布。劉備を討つべしとなしたが第一の計は忽ち呂布の謀臣陳宮のために見破られて失敗に帰した。更に第二の策として持出したのは呂布の女(むすめ)と自分の子を結ぶことであつた。
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第一夫人、第二夫人、それと、いはゆる妾(セフ)とよぶ婦人と。
呂布の閨室(けいしつ)は、もともと、さう三人あつた。
厳氏は、正妻である。
その後、曹豹の女(むすめ)を入れて、第二の妻としたが、早逝してしまつたので子供もなかつた。
三番目のは妾である。
妾の名は、貂蟬といふ。
貂蟬といへば、彼が、まだ長安にゐた頃、熱烈な恋をよせ、恋のため、董相国に反(そむ)いて、遂に、時の政権をくつがへしたあの大乱の口火となつた一女性であるが——その貂蟬はまだ彼の秘室に生きてゐたのだらうか。
「貂蟬よ、貂蟬よ」
彼は今も、よくそこの閨園(ケイヱン)では呼んでいる。だが、その後、彼に侍(かしづ)いてゐる貂蟬は、彼(か)の王允の養女であつた薄命な貂蟬とは、名こそ同じだが、別人であつた。
どこか、似てはゐる。
然(しか)し、年もちがふ、気だてもちがふ。
呂布も、煩悩児であつた。
長安大乱のなかで死んだ貂蟬があきらめきれなかつた。それ故、諸州にわたつて、貂蟬に似た女性をさがし、漸くその面影をどこか偲(しの)べる女を得て、
「貂蟬、貂蟬」と、呼んでゐるのだつた。
その貂蟬にも、子はなかつたので、子供といつては、厳氏の腹から生れた娘があるだけである。
煩悩な父親は、その愛娘(まなむすめ)へも、人なみ以上な鍾愛(シヤウアイ)をかけてゐる。——子の幸福を、自分の行末(ゆくすゑ)以上案じてゐる。
「どうだね?」
袁術からの縁談には、彼はほとほと迷つてゐた。
男親は、餘りに、多方面から考へすぎる。
一面では良縁と思ふし、一面では危(あやふ)さを覚える。
「——妾(わたし)は、いゝおはなしと思ひますが」
正妻の厳氏は云つた。
「なぜならば、妾が、ふと聞いたうはさでは、袁術といふ人は、早晩、天子になるお方ださうですね」
「誰に聞いた?」
「誰とはなく、侍女(こしもと)たちまで、そんな噂をさゝやきます。——天子の位につく資格をもつてゐるんですつて」
「彼の手には、伝国の玉璽がある。それでだらう。——然(しか)し、衆口のさゝやき伝へる力のはうが怖(おそろ)しい。実現するかもしれないな」
「ですから、よいではございませんか。娘を嫁入らせば、やがて皇妃になれる望みがありませう」
「おまへも、偉いところへ眼をつけるな」
「女親のいちばん考へる問題ですもの。たゞ、先方に何人の息子がゐるか、それは調べておかなければいけませんね。大勢のなかの一番出来の悪い息子になんか貰はれたら後悔しても追ひつきませんから」
「その点は、不安はない。袁術には、一人しか息子はゐないのだから」
「ぢやあ、考へていらつしやる事はないぢやありませんか」
雌鶏(めんどり)のことばに、雄鶏(をんどり)も羽ばたきした。——袁家から申しこんで来た「共栄の福利を永久に頒(わか)たん」との辞令が、真実のやうに思ひ出された。
返辞を待ちきれないやうに、袁家からは、再度、韓胤(カンイン)を使者として、
「御縁談の儀は、いかゞでせうか。一家君臣をあげて、この良縁の吉左右(キツサウ)を、鶴首(カクシユ)してをるものですから」
と、内意を質(たゞ)しに来た。
呂布は、韓胤を駅館に迎へて、篤くもてなし、承知の旨を答へると共に、使者の一行にたくさんな金銀を与へ、また帰る折りには、袁術へ対して、豪華な贈物を馬や車に山と積んで持たせてやつた。
「申し伝へます。さだめし袁御一家におかれても、御満足に思はれませう」
韓胤の帰つた翌日である。
例の〔むづかしや〕の陳宮が、いとど〔むづかしい〕顔をして、朝から政務所の閣にひかへ、呂布が起(おき)出(だ)してくるのを待つてゐた。
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次回 → 花嫁(三)(2024年9月2日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。