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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 平和主義(五)
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「このまゝ踏み止まつてゐたら、玄徳はさて措(お)いて、呂布が、違約の敵と名乗つて、総勢で攻めてくるにちがひない」
紀霊は、呂布を恐れた。
何だか呂布に一ぱい喰はされた気もするが、彼の太い神経には、まつたく圧服されてしまつた。
やむなく紀霊は、兵を退(ひ)いて、淮南へ帰つた。
彼の口から、仔細を聞いて、赫怒(カクド)したのは、袁術であつた。
「彼奴(きやつ)。どこまで図太い奴か底が知れん。莫大な代償を、受取つておきながら、よくも劉備を庇(かば)ひだてして、無理押しつけな和睦などを酬い居つたな」
虫が納まらない。
袁術、堪忍をやぶつて、
「この上は、予が自身で、大軍をすゝめ、徐州も小沛も、一挙に蹴ちらしてくれん」
と、令を発せむとした。
紀霊は、自己の不面目を、ふかく恥ぢてゐたが、
「いけません。——断じて、うかつには」
と、諫めた。
「呂布の勇猛は、天下の定評です。勇のみかと思つてゐたら、どうして、機智も謀才もあるのには呆れました。それが徐州の地の理をしめてゐるのですから、下手に出ると、大兵を損じませう」
「と云ふと、彼奴が北隣に蟠踞(バンキヨ)してゐては、将来ともこの袁術は、南へも西へも伸びることができないではないか」
「それに就(つい)て、ふと思ひ当つた事があります。聞くところに依ると、呂布には妙齢(としごろ)の美しい娘がひとりあるさうです」
「妾(セフ)の腹か、妻女の子か」
「妻女の厳(ゲン)氏が生んだ愛娘(まなむすめ)だといふはなしですから、猶(なほ)、都合がいいのです」
「どうして」
「御当家にも、はや嫁君を迎へてよい御子息がおありですから、婚を通じて、まづ、呂布の心を籠絡するのです。——その縁談を、彼が受けるか受けないかで、彼の向背(カウハイ)も、はつきりします」
「む、む」
「もし彼が、縁談をうけて、娘を御子息へよこすやうでしたら——しめたものです。呂布は、劉備を殺すでせうよ」
袁術は、膝を打つて、
「よい考へだ。良策を献じた褒美として、この度の不覚は、罪を問はずにおいてやる」
と、云つた。
袁術はまづ、一書を認(したゝ)めて、このたび和睦の労をとられた貴下の御好意に対して、満腔の敬意と感謝を捧げる——と慇懃な答礼を送つた。
日をはかつて、それからわざと二月ほどの間をおいてから、
「——時に、光栄ある貴家と姻戚の縁をむすんで、永く共栄を頒(わか)ち、親睦のうへにも親睦を篤うしたいが」
と、縁談の使を向けた。
もちろんその返辞は、
「よく考へた上、いづれ御返辞は、当方より改めて」
と、世間なみな当座の口上であつた。
先には、和睦の仲介へ、篤く感謝して来てゐるし、それからの縁談なので、呂布は、真面目に考慮した。
「わるい話でもないな。……どうだね。おまへの考へは」
妻の厳氏に相談した。
「さあ……?」
愛(いと)しいひとり娘なので、彼の妻も、象牙(ぞうげ)を削つたやうな指を頰にあてゝ考へこんだ。
後園の木蘭の花が、ほのかに窓から匂つてくる。呂布のやうな漢(をとこ)でも、かういふ一刻は和やかな眼をしてゐるよい父親であつた。
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次回 → 花嫁(二)(2024年8月31日(土)18時配信)