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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 平和主義(四)
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さう張飛に挑戦されては、紀霊もしりごみしてはゐられない。
「この匹夫めが」
剣を鳴らして起ちかけた。
呂布は、双方を睨みつけて、
「やかましい。無用な騒ぎ立てするな」
と、大喝して、
「誰か、来い」
と、後(うしろ)へもどなつた。
そして馳け集まつて来た家臣等に向ひ、
「おれの戟を持つて来い。おれの画桿(グワカン)の大戟のはうだ」
と、すさまじい語気でいひつけた。
出来合ひの平和主義も、意のままにならないので、立ち所に憤怒(ふんぬ)の本相をあらはす気とみえる。彼が立腹したら何をやりだすか分らない。紀霊も非常に恐れたし、玄徳も息をのんで、
「どうなる事か」
と、見まもつてゐた。
画桿の大戟は彼の手に渡された。それを引つ抱へながら一座を睨(ね)めまはして、呂布はかう云ひ出した。
「今日、おれが双方を呼んで、和睦しろといふのは、おれが云ふのぢやない。天が命じてゐるのだ。それに対して、私の心をはさみ、四の五の並べ立てるのは天の命に反(そむ)くものだぞ」
果然、彼はまだ、厳かな平和主義者の仮面を脱がない。
何思つたか、呂布は、さう云ふや、否、ぱつと、閣から走りだして、彼方、轅門(ヱンモン)のそばまで一息に飛んでゆくと、そこの大地へ、戟を逆しまに突きさして帰つて来た。
そして又云ふには、
「見給へ、こゝから轅門までのあひだ、ちようど百五十歩の距離がある」
一同は、彼の指さすところへ眼をやつた。何のために、あんな所へ戟を立てたのか、たゞ怪訝(いぶか)るばかりだつた。
「——そこでだ。あの戟の枝鍔を狙つて、こゝからおれが一矢射て見せる。首尾よく中(あた)つたら、天の命を奉じて、和睦をむすんで帰り給へ。中らなかつたら、もつと戦へよといふ天意かも知れない。おれは手を退(ひ)いて干渉を止めよう。勝手に、合戦をやりつゞけるがいゝ」
奇抜なる提案だ。
紀霊は、中るはずはないと思つたから、同意した。
玄徳も、
「おまかせする」
と、云ふしかなかつた。
「では、もう一杯飲んで」
と、席に着き直つて、呂布は又、一巡酒をすゝめ、自分も彼方の戟を見ながら飲んでゐたが、やがてぽつと酔が顔に徴(きざ)して来た頃、
「弓をよこせ!」
と、家臣へどなつた。
閣の前へ出て、呂布は正しく片膝を折つた。
弓は小さかつた。
弭(つのゆみ)——又は李万弓(リマンキウ)ともいふ半弓型のものである。けれど梓(あづさ)に薄板金(うすいたがね)を貼り、漆巻(うるしまき)で緊(し)めてあるので、弓勢(キウセイ)の強いことは、剛弓とよぶ物以上である。
「……」
ぶツん!
弦はぴんと返つた。切つて離たれた矢は笛の如く風に鳴つて、一線、鮮やかに微光を描いて行つたが、カチツと、彼方で音がしたと思ふと、戟の枝鍔は、星のやうに飛び散り、矢は砕けて、三つに折れた。
「——中つた!」
呂布は、弓を投げて、席へもどつた。そして紀霊に向ひ、
「さあ約束だ。すぐ天の命を受け給へ。何、主君に対して困ると。——いや袁術へは、此方から書簡を送つて、君の罪にならぬやうに云つておくからいゝ」
彼を、追ひかへすと、呂布は玄徳へ、得意になつて云つた。
「どうだ君。もし俺が救はなかつたら、いかに君の左右に良い両弟が控へても、まづ今度は、滅亡だつたらうな」
売りつける恩とは知りながらも、玄徳は、
「身の終るまで、今日の御恩は忘れません」
と、拝謝して、程なく小沛へ帰つて行つた。
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次回 → 花嫁(一)(2024年8月30日(金)18時配信)