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連載第95回 → 乱兆(一)
(全14冊本第2巻「群星の巻」初回。昭和14年12月20日付掲載)
前回はこちら → 平和主義者(三)
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平和主義も顔負けしたらう。
それも、餘人が云ふならともかく、呂布が自分の口で、
(おれは平和主義だ)
と、見得(みえ)を切つたなどは、近ごろの珍事である。
もとより紀霊も、こんな平和主義者を、信用するはずはない。可笑(をか)しいよりも、彼は、猶(なほ)さら疑惑に脅(おび)やかされた。
「和睦といはれるが、いつたい和睦とは、何(ど)ういふわけで?」
「和睦とは、合戦をやめて、親睦をむすぶ事さ。知らんのか君は」
紀霊は、呆気(あつけ)にとられた。
その顔つきを煙に播(ま)いて、呂布は、彼の臂(ひじ)を引張ツたまゝ席へ伴(つ)れて来た。
変なものが出来あがつた。
座中の空気は白けてしまふ。紀霊と玄徳とは、こゝでは客同士だが、戦場では当面の敵と敵である。
「…………」
「…………」
お互ひに〔しり〕眼(め)に見合つて、毅然と構へながらも、もじ/\してゐた。
「かう並ばう」
呂布は、自分の右へ、玄徳を招じ、左の方へ、紀霊の座をすゝめた。
酒宴になつた。
だが、酒の旨からうはずがない。どつちも、黙々と、杯の端を舐めるやうな事をしてゐる。
そのうちに呂布が、
「さあ、これでいゝ。——これで双方の親交も成立した。胸襟をひらいて、ひとつ乾杯しよう」
と、ひとり飲みこんで杯を高くあげた。
併(しか)し、挙がつた手は、彼の手だけだつた。
ここに至つては、紀霊も黙つてゐられない。席を蹴らんばかりな顔をして、
「冗談は止(や)めたまへ」
と、呂布へ正面を切つた。
「なにが冗談だ」
「考へてもみられよ。それがしは君命をうけて、十万の兵を引率し、玄徳を生捕らずんば生還を期せずと、この戦場に来てをるのだ」
「分つてをる」
「百姓町人の擲合(なぐりあひ)か何ぞなら知らぬ事。さう簡単に、兵を引揚げられるものではない。それがしが戦を熄(や)める日は、玄徳を生捕るか、玄徳の首を戟(ほこ)に貫いて、凱歌をあげる日でなければならん」
「…………」
玄徳は、黙然と聞いてゐたが、その後(うしろ)に立つてゐた関羽、張飛の双眼には、あり/\と、烈火が滾(たぎ)つてゐた。
——と思ふまに、張飛は、玄徳のうしろから戞々(カツ/\)と、大股に床(ゆか)踏(ふ)み鳴らして、
「やい紀霊ツ。これへ出ろ。——黙つてをれば、人もなげな広言。われわれ劉玄徳と誓ふ君臣は、兵力こそ少いが、汝ら如き蛆虫(うじむし)や、〔いなご〕とは実力がちがふ。そのむかし、黄巾の蜂徒(ホウト)百万を、僅か数百人で蹴散らした俺たちを知らないか。——もういちどその舌の根をうごかしてみろ!たゞは置かんぞツ」
あはや剣を抜いて躍りかゝらうとするかの血相に、関羽は驚いて、張飛を抱きとめ、
「さう貴様一人で威張るな。いつも貴様が先に威張つてしまふから、俺などの出る所はありはしない」
「愚図/\云つてゐるのは、それがし大嫌ひだ。やい紀霊、戦場に所は選ばんぞ。それほど、わが家兄の首が欲しくば、目のまへで取つてみろ」
「まあ、待てと申すに。——呂布にも何か考へがあるらしい。呂布がどう処置をとるか、もう暫く、家兄のやうに黙りこくつて見てゐるがいゝ」
すると、張飛は、
「いや、その呂布にも、文句がある。下手な真似をすると、呂布だらうが、誰だらうが、用捨(ヨウシヤ)はしてゐねえぞ」
と、髪は、冠をとばし、髯は逆(さか)しまに分れて、丹(タン)の如き口を歯の奥まで見せた。
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次回 → 平和主義(五)(2024年8月29日(木)18時配信)