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第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 名医(二)
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孫策は、剣を拭つて、片隅にふるへてゐる厳輿の従者たちに向ひ、
「——拾つて行け」
と、床の上にころがつてゐる厳輿の首を指さしながら、重ねて云つた。
「当方の返辞は、その首だ。立ち帰つて、厳白虎に、有の儘(まゝ)、告げるがいゝ」
従者は、主人の首を抱へて、逃げ帰つた。
厳白虎は弟が首になつて帰つたのを見ると、復讐を思ふよりは却(かへつ)て孫策のすさまじい挑戦ぶりにふるへあがつて、
「単独で戦ふのは危険だ」
と、考へた。
ひとまづ会稽(クワイケイ)(浙江省・杭州)へ退いて、浙江省の諸雄をたのみ、策を立て直さうと、ひどく弱気になつて、烏城(ウジヤウ)を捨て、夜中遽(には)かに逃げ出してしまつた。
寄手の太史慈や黄蓋などはそれを追ひまくして、存分な勝(かち)を収めた。
きのふまでの「東呉の徳王」も、見る面影もなくなつてしまつた。到るところで追手の軍に打ちのめされ、途中、民家をおびやかしてからくも糧食に有りついたり、山野にかくれたりして漸く会稽へたどり着いた。
その時、会稽の太守は、王朗(ワウラウ)といふ者だつた。王朗は厳白虎を助けて、大軍をくり出し、孫策の侵略に当らうとした。
すると、臣下のうちに、虞翻(グホン)、字(あざな)は仲翔(チユウシヤウ)といふ者があつて、
「時が来ました。時に逆らふ盲動は、自分を亡ぼすのみです。この戦はお避けなさい」
と、諫言した。
「時とは何だ?」
王朗が問ふと、
「時代の波です」
と、仲翔は言下に答へた。
「——では、外敵の侵略にまかせて、手を拱(こまね)いてゐろといふのか」
「厳白虎を捕へて、孫策に献じ、彼と誼(よしみ)をむすんで、国の安全をおはかりなさい。——それが時代の方向に沿ふといふものです」
「ばかを申せ。孫策づれに、会稽の王朗が見つともない媚びを呈せられやうか。それこそ世の物笑ひだ」
「さうではありません。孫策は、義を尊び、仁政を布(し)き、従来、赫々たる民望をはやくも負つてゐます。それにひきかへ厳白虎は、奢侈、悪政、善いことは、何一つしてきませんでした。しかも頭の古い旧時代の人間です。あなたが手をださなくても、もう時代と共に亡び去る物のひとつです」
「いや、厳白虎とわしとは、旧交も深い。孫策如きは、われわれの平和をみだす外敵だ。こんな時こそ聯携して、侵略の賊を打たねばならん」
「噫(あゝ)。あなたも、次の時代に用のないお方だ」
仲翔が長嘆すると、王朗は、激怒して、
「こやつめ、わしの滅亡を希(ねが)つてをるな。目通りはならん。去れつ」
と、追放を命じた。
仲翔は甘んじて、国外へ去つた。
邸(やしき)を追はれる時、彼は元より一物も持つて出なかつたが、平常、籠に飼つてゐた雲雀だけは、
「おまへも心なき人には飼はれたくないだらう」
と呟いて、籠のまゝ抱へて立ち退(の)いた。
彼が王朗に説いたいはゆる時代の風浪は、山野にかくれてゐた賢人をひろひ上げてもゆくが、又、官衙(クワンガ)や武府の旧勢力のうちにもゐる多くの賢人を忽ち、山林へ追ひこんでしまふ作用もした。
仲翔も、その一人だつた。
彼は、黙々と、野を歩いて、これから隠れ棲む草廬の地をさがした。
そして、名もない田舎の山にかかると、ほつとしたやうに、
「おまへも故郷に帰れ」
と、籠の小禽(ことり)を、青空へ放した。
仲翔は、ほゝ笑みながら、青空へ溶け入る禽の影を見送つてゐた——これから生きる自分のすがたと同じものにそれが見えたからであらう。
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次回 → 名医(四)(2024年8月22日(木)18時配信)