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第一回 → 黄巾賊(一)
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ひとまづ、江東も平定した。
軍勢は日ましに増強するばかりだし、威風は遠近をなびかせて、孫策の統業は、こゝにその一段階を上つたと云つてよい。
「こゝが大事だ。こゝで自分は何を為すべきだらうか?」
孫策は自問自答して、
「さうだ、母を呼ばう」
と、いふ答へを得た。
彼の老母や一族は柱とたのむ故孫堅の歿後、永らく曲阿の片田舎にひきこもつて、あらゆる迫害をうけてゐた。
珠簾(シユレン)の輿(こし)、錦蓋(キンガイ)の美車。
加ふるに、数多の大将や護衛の兵を送つて、彼は曲阿の地から老母とその一族をむかへて来た。
孫策は、久方ぶりに、母の手を取つて、宣城(センジヤウ)に奉じ、
「もう、安心して、余生をこゝでお楽しみください。——孫策も大人になりましたから」
と、云つた。
もう白髪となつた老母は、たゞおろ/\してゐた。歓びのあまり
「そなたの亡父(ちち)がゐたらなう」
と、かへつて泣いてばかりゐる。
孫策は弟の孫権に、
「おまへに大将周泰をつけておくから、宣城を守り、わしに代つて母に孝養をしてあげてくれ」
さう云ひ残して、彼はふたゝび南方の制覇に赴いた。
彼は、戦ひ取つた地には、すぐ治安を布(し)いて、民心を得ることを第一義とした。
法をたゞし貧民を救ひ、産業を扶(たす)ける一方、悪質な違反者には、寸毫(スンガウ)もゆるさぬ厳罰を加へた。
——孫郎来る!
という声だけでも、良民はあわてゝ道をひらいて路傍に拝し、不良民は胆(きも)をひやして影をかくした。
それまで、州や県の役所や城をすてゝ、山野へ逃げこんでゐた多くの官吏も、
「孫郎は民を愛し、信義の士をよく用ふる将軍らしい」
と、分ると、続々郷へ帰つてきて仕官を願ひ出て来るものが絶えなかつた。
孫策は、それらの文吏をも採用してよく能才を用ひ、平和の復興に努めさせた。
そしてなお後図の治安は治安として、自身は征馬を南へすゝめてゐたのである。
その頃、呉郡(浙江省)には、
東呉の徳王(トクワウ)、
と自ら称している厳白虎(ゲンパクコ)が威を揮(ふる)つてゐたが、孫策の襲来が、漸く南へ進路をとつてくる様子と聞いて、
「すはこそ!」
と、どよめき立ち、厳白虎の弟厳輿(ゲンヨ)は、楓橋(フウケウ)(江蘇省・蘇州附近)まで兵を出して防寨(バウサイ)に拠つた。
この際、孫策は、
「多寡のしれた小城」
と、自身、前線へ立つて、一揉みに、突破しようとしたが、張紘にたしなめられた。
「大将の一身は、三軍の生命です。もうあなたは、中軍にあつて、天授のお姿を、自重してゐなければいけません」
「さうか」
孫策は、諫めをきいて、大将韓当に先鋒をいひつけた。
陳武、蔣欽の二将は、小舟にのつて、楓橋のうしろへ廻り、敵を挟撃したので、厳輿は支へきれず、呉城へ後退してしまつた。
息もつかせず、呉城へ迫つた孫策は、濠(ほり)ばたに馬を立てゝ、攻め競ふ味方を指揮してゐた。
すると、呉城の高矢倉の窓から半身のり出して、左の手を梁(うつばり)にかけ、右の手で孫策を指さしながら、何か、口汚く罵つている大将らしい漢(をとこ)がある。
「憎き奴かな」
と、孫策がうしろを見ると、味方の太史慈も、目をとめて、弓をひき絞つてゐた。——太史慈の指が、絃を切つて、ぶうんと、一矢放つと、矢は狙ひたがはず、高矢倉の梁に突き立つた。
しかも、敵の大将らしい漢(をとこ)の手を、梁へ射つけてしまつたので、孫策が、
「見事!」
と、鞍を叩いて賞めると、全軍みな、彼の手際に感じて快哉をさけび合ひ、その声からしてすでに呉城を圧してゐた。
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次回 → 名医(二)(2024年8月20日(火)18時配信)