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第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 日時計(三)
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孫策も、微笑した。
「はゝあ、では君は、せつかく進言しても、この孫策に用ひる度量があるまいと云はるゝのか」
「さうです」
太史慈は、うなづいて、
「——それを惧(おそ)れます。しかし一応、申(まうし)述べてみませう」
「うむ。聞かう」
「ほかでもありませんが、劉繇に付き従つてゐた将士は、その後、主と恃(たの)む彼を見失つて、四散流迷してをります」
「あ。敗残兵のことか」
「ひと口に、敗残軍といへば、すでに弱力化した無能の群れとして、これを無視してしまふ傾きがありますが、時利あらずで、その中には、惜(をし)むべき大将や兵卒らも入り交(まじ)つています」
「ふむ。それを何(ど)うせよと、君は進言するのか」
「今、この太史慈を、三日間ほど、自由に放して下されば、私が行つて、それ等(ら)の残軍を説き伏せ、粗を捨て、良を選び、必ず将来、あなたの楯となるやうな精兵三千をあつめて帰ります。——そしてあなたに忠誠を誓はせて御覧にいれますが」
「よし。行つてくれ給へ」
孫策は、度量を見せて、すぐ許したが、
「——だが、けふから三日目の午(うま)の刻(正午)までには、必ず帰つて来なければいかんよ」
と、念を押して、一頭の駿馬を与へ、夜のうちに、彼を陣中から放してやつた。
翌朝。
帷幕の諸将は、太史慈のすがたが見えないので、怪しんで孫策にたづねると、ゆふべ彼の進言にまかせて、三日の間、放してやつたとのことに、
「えつ。太史慈を?」
と、諸将はみな、せつかく生捕つた檻(をり)の虎を野へ放したやうに啞然とした。
「怖(おそ)らく、太史慈の進言は、偽りでせう。もう帰つて来ないでせう」
さういふ人々を笑ひながら、孫策は、首を振つた。
「なに、帰つて来るさ。彼は信義の士だ。さう見たからこそ、余は彼の生命を惜(をし)しんだので、もし信義もなく、帰つて来ないやうな人間だつたら、再び見ないでも惜いことはない」
「さあ、どうでせう」
諸将はなほ信じなかつた。
三日目になると、孫策は、陣外へ日時計を据ゑさせて、二人の兵に日影を見守らせてゐた。
「辰(たつ)の刻です」
番兵は、一刻ごとに、孫策へ告げに来た。しばらくすると又、
「巳(み)の刻となりました」
と、報(し)らせてくる。
日時計は、秦の始皇帝が、陣中で用ひたのが始めだといふ。『宋史』には何承天(カシヤウテン)が「表候日影(ヒヨウコウニチエイ)」を司(つかさど)るとある。明代には晷影臺(キエイダイ)といふのがある。日時計の進歩したものである。
後漢時代のそれは、もちろん原始的なもので、垂直の棒を砂上に立て、その投影と、陰影の長さをもつて、時刻を計算したものだつた。
砂地のかはりに、床を用ひたり、又、壁へ映る日影を記録したりする方法などもあつた。
「午の刻です!」
陣幕のうちへ、刻の番の兵が大声で告げると、孫策は、諸将を呼んで、
「南のほうを見ろ」
と、指さした。
果(はた)せるかな、太史慈は、三千の味方を誘つて、時も違へず、彼方の野末(のずゑ)から、一陣の草(くさ)埃(ほこ)りを空に揚げて帰つて来た。
孫策の烱眼(ケイガン)と、太史慈の信義に感じて、先に疑つてゐた諸将も、思はず双手(サウシユ)を打(うち)ふり、歓呼して彼を迎へた。
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次回 → 名医(一)(2024年8月19日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。