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第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 小覇王(三)
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かくて、小覇王孫郎の名は、旭日のやうな勢となり、江東一帯の地は、その武威にあらまし慴伏(セフフク)してしまつたが、こゝに猶(なほ)頑健な歯のやうに、根ぶかく歯肉たる旧領を守つて、容易に抜きとれない一勢力が残つてゐた。
太史慈、字(あざな)は子義。
その人だつた。
主柱たる劉繇が、どこともなく逃げ落ちてしまつてからも、彼は、節を変へず、離散した兵をあつめ、涇県(安徽省・蕪湖の南方)の城にたてこもり、依然として抗戦しつゞけてゐた。
きのふは九江に溯江し、けふは秣陵に下り、明ければ又、涇県へ兵馬をすゝめて行く孫策は、文字どほり南船北馬の連戦であつた。
「小城だが、北方は一帯の沼地だし、後(うしろ)は山を負つてゐる。しかも城中の兵は、わづか二千と聞くが、この最期まで踏み止(とゞ)まつてゐる兵なら、おそらく死を決してゐる者どもにちがひない」
孫策は、涇県に着いたが、決して味方の優勢を慢じなかつた。
むしろ戒めて、
「みだりに近づくな」
と、寄手の勢を遠巻(とほまき)に配して、おもむろに城中の気はいを探つてゐた。
「周瑜」
「はつ」
「君に問ふが、君が下知するとしたら、この城をどうして墜(おと)すかね」
「至難です。多大な犠牲を払ふ覚悟でなければ」
「君も至難と思ふか」
「たゞ、わづかに考へられる一つの策は、死を惜(をし)まぬ将一人に、これも決死の壮丁十人を募り、燃えやすい樹脂や油布(ユフ)を担はせて、風の夜、城中へ忍び入り、諸所から火を放つことです」
「忍び入れるだらうか」
「大勢では見つかりませう」
「でも、あの高い城壁を」
「攀(よ)ぢ登るに、法を以てすれば、登れぬことはありません」
「だが——誰をやるか」
「陳武が適任でせう」
「陳武は、召抱へたばかりの者だし、将来も使へるいゝ大将だ。それを死地へやるのは惜(をし)い。——又、もつと惜いのは、敵ながら太史慈といふ人物である。あれは生擒りにして、味方に加へたいと望んでをるのだが」
「それでは、かうしては如何です。——城中に火光が見え出したら、同時に三方から息もつかず攻めよせ、北門の一方だけ、わざと手薄にしておきます。——太史慈はそこから討つて出ませう。——出たら彼一名を目がけて追ひまくり、その行く先に、伏兵をかくしておくとすれば」
「名案!」
孫策は、手を打つた。
陳武の下に、十名の決死隊が募られた。もし任務をやり遂げて、生きて回(かへ)つたら、一躍百人の伍長にすゝめ、莫大な恩賞もあらうというので、たくさんの志望者が名のり出た。
その中から十名だけの壮丁を選んで、風の夜を待つた。
無月黒風の夜はやがて来た。
油布、脂柴(あぶらしば)などを、壮丁の背に負はせて、陳武も身軽にいでたち、地を這ひ、草を分けて、敵の城壁下まで忍びよつた。
城壁は石垣ではない。高度な火で土を焼いた磚(セン)といふ一種の瓦を、厚さ一丈の餘、高さ何十丈に積みかさねたものである。
——が、何百年もの風雨に曝(さら)されてゐるので、磚(かはら)と磚とのあひだには草が生え、土がくづれ、小鳥が巣をつくり、その壁面はかなり荒れてゐる。
「おい一同。まづ俺ひとりが先へ登つて行つて、綱を下ろすから、そこへ屈(かゞ)みこんだ儘(まゝ)、敵の歩哨を見張つてをれ。——いゝか、声を出すな、動いて敵に見つかるな」
陳武は、さう戒めてから、たゞ一人で攀(よ)ぢ登つて行つた。——磚と磚のあひだに、短剣をさしこんで、それを足がかりとしては、一歩々々、剣の梯子を作りながら踏み登つて行くのであつた。
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次回 → 日時計(二)(2024年8月15日(木)18時配信)