[新設]ターミナルページはこちら
(2024年8月25日より本格的に稼動予定。外部サービス「note」にリンク)
第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 小覇王(一)
***************************************
最後の一策として試みた奇襲も惨敗に帰したばかりか、恃(たの)みとしてゐた干糜、樊能の二将まで目のまへで孫策のために殺されてしまつたので、劉繇は、
「もう駄目だ」
と、力を落して、わづかな残兵と共に、荊州へ落ちて行つた。
荊州(湖北省・江陵・揚子江流域)には一方の雄たる劉表がなほ健在である。
劉繇は始め、秣陵へ退いて、陣容をたて直すつもりだつたが、敗戦の上に又敗北を重ねてしまひ、全軍まつたく支離滅裂となつて、彼自身からして抗戦の気力を失つてしまつたので、
「この上は、劉表へ縋(すが)らう」
とばかり、命から/゛\逃げ落ちてしまつたのである。
こゝかしこの荒野に捨て去られた屍は一万の餘を超えてゐた。
「劉繇、恃むに足らず」
と見かぎつて、孫策の陣門へ降参してゆく兵も一群れ又一群れと、数知れなかつた。
然(しか)し、さすが大藩の劉繇の部下のうちには、なほ降服を潔しとしないで、秣陵城をさして落ち合ひ、そこで、
「華々しく一戦せん」
と、玉砕を誓つた残党たちもあつた。
張英、陳横などの輩(ともがら)である。
沿岸の敗残兵を掃蕩しながら、やがて孫策は秣陵まで迫つて行つた。
張英は、城中の矢倉から敵の模様をながめてゐたが、近々と濠(ほり)際(ぎは)まで寄せて来た敵勢の中に、一際目立つ若い将軍が指揮してゐる雄姿を見つけて、
「あつ、孫策だ」
と、あわたゞしく弓を把(と)つて引きしぼつた。
狙ひたがはず、矢は、若い将軍の左の腿(もゝ)に中(あた)り、馬よりだうと転げ落ちた。——呀(あ)ツと、辺りの兵は驚き躁(さは)いで、将軍のまはりへ馳け寄つて行く——。
それこそ、孫策であつた。
孫策は、起たなかつた。
大勢の兵は、彼の体を担ぎ上げて、味方の中へ隠れこんだ。
その夜。
寄手は急に五里ほど陣をひいてしまつた。陣中は寂として、墨の如く夜霧が降りてゐた。そして、随処に弔旗が垂れてゐた。
「急所の矢(や)創(きず)が重らせたまうて、孫将軍には、敢(あへ)なく息をとられた」
と、士卒の端まで哭(な)き悲しんでゐた。まだ、喪はふかく秘せられてゐるが、不日、柩(ひつぎ)を奉じて引揚げるか、埋葬の地をさだめて、戦場の丘に仮の葬儀が営まれるであらうと、囁(さゝや)き合つたりしてゐた。
城中から捜(さぐ)りに出てゐた細作(おんみつ)は、さつそく、立帰つて、
「孫策は死にました」
と、張英に知らせた。
張英は膝を打つて、
「さうだらう!おれの矢に中(あた)つて、助かつた者はない」
と、衆に誇つた。
然(しか)し、なほ念のためにと、陳横の手から、再度、物見を放つてみると、その朝(テウ)、附近の部落民が、怖(おそろ)しく頑丈な柩を、大勢して重さうに陣門へ担(にな)ひこんでゆくのを見た。
「間違ひはありません。孫策はたしかに落命しました。そして葬儀も近いうち仮に営むらしく、そつと支度してゐます」
物見の者は、一点の疑ひも挟まず、ありのまゝ復命した。
張英、陳横は、顔見あはせて、
「うまく行つたな」
ニタリと笑ひあつた。
***************************************
次回 → 小覇王(三)(2024年8月13日(火)18時配信)