第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 好敵手(二)
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「太史慈が今、ついそこで、敵の孫策と一騎打してゐるが、いつ勝負がつくとも見えません。疾(と)く御加勢あれば、生(いけ)擒(ど)れませう」
一騎、劉繇の陣へ飛んで来て、かう急を告げた。
劉繇は、聞くとすぐ、
「それツ」
と、千餘騎をそろへて、漠々(バク/\)と馳け逸(はや)つて行つた。
金鼓は地をゆるがし、またゝく間に、ふもとの林へ近づゐた。
太史慈と孫策とは、その時まだ、ガツキと組み合つたまゝ、互(たがひ)に、焰(ほのほ)のやうな息を弾(はず)ませてゐた。
「しまつた!」
孫策は、近づく敵の馬蹄のひゞきに、一気に対手(あひて)を屠(ほふ)つてしまはうと焦つたが、太史慈の手が、自分の被(き)ている盔(かぶと)をつかんだまゝ離さないので、
「む、むツ!」
獅子の如く首を振つた。
そして、対手の肩越しに、太史慈が肩に懸けてゐる短剣の柄を握つて孫策も離さなかつた。
そのうちに、盔が〔ちぎれ〕た弾みに、二人とも、勢(いきほひ)よくうしろへ仆(たほ)れた。
孫策の盔は、太史慈の手にあつた。
また、太史慈の短剣は、孫策の手にあつた。
ところへ——
劉繇の騎兵が殺到した。
同時に、
「君の安危やいかに?」
と、孫策の部下十三騎の人々もこゝへ尋(さが)しあてゝ来た。
当然、乱軍となつた。
しかし衆寡敵せず、孫策以下の十三騎も、次第に攻めたてられて、狭い谷間(たにあひ)まで追ひつめられたが、忽ち、神亭廟のあたりから喊(とき)の声が起つて、一隊の精兵が、
「オヽ。救へツ」
と、雲のうちから馳け下つて来た。
——われには神の加護あり……
と、孫策が云つたとほり、光武帝の神霊が、早くも奇瑞(キズヰ)をあらはして味方したまふかと思はれたが、それは彼の幕将周瑜が、孫策の帰りがおそいので、手兵五百を率ゐてさがしに来たものだつた。
そしてすでに陽も西山に沈まうとする頃、急に、黒雲白雲たちこめて、沛然(ハイゼン)と大雨がふりそゝいできた。
それこそ神雨だつたかも知れない。
両軍、相引(あひびき)に退いて、人馬の喚きも消え去つた後、山谷の空には、五彩の夕虹が懸かつてゐた。
明くれば、孫策は、
「けふこそ、劉繇が首を見、太史慈を生捕つて帰らうぞ」
とばかり暁に早くも山を越えて、敵の陣前へひた押しに攻めよせ、
「やあ、見ずや、太史慈」
と、高らかに呼ばはつた。
きのふの一騎打に、彼の手から奪ひ取つた例の短剣を、旗竿に結びつけて、士卒に高く打振らせてゐた。
「武人たる者が、大事の剣を取落して、命から/゛\逃げ出して、恥とは思はぬか。——見よや、敵も味方も。これなん太史慈の短剣なるぞ」
どつと笑つて、辱(はづか)しめた。
すると劉繇の兵の中からも、一本の旗竿が高く差伸べられた。見ればその先には、一着の盔(かぶと)がくゝりつけてある。
「やあ、孫策は無事なのか」
陣頭に馬をすゝめて、太史慈はほがらかに云ひ返した。
「君よ、見給へ。こゝにあるのは君の頭ではないか。武士たる者が、わが頭を敵にわたし、竿頭の曝(さら)し物とされては、もはや利(き)いたふうな口はきけない筈(はず)だがな。……あはゝゝ。わはゝゝ」
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次回 → 小覇王(一)(2024年8月10日(土)18時配信)
今回までの執筆分が14冊単行本の第3巻「草莽の巻」となります。次回からは第4巻「大江の巻」に入ります。