第一回 → 黄巾賊(一)
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投げた槍は、太史慈の身を掠(かす)めて、ぶすつと、大地へ突き立つた。
太史慈はひやりとした。
そして猶々(なほ/\)、林の奥へと、駒をとばしながら、心のうちでかう思つてゐた。
「孫策の人となりは、かねて聞いてゐたが、聞きしに勝る英武の質だ。うつかりすると、これはあぶない——」
同じやうに。
彼をうしろから追つてくる孫策も亦(また)、心中、
「これは名禽(メイキン)だ。手捕りにしてわが籠に飼はねばならん。どうしてこんないゝ若武者が、劉繇などに仕へて居たのかしら?」
そこで孫策は、
「おオヽい、待てえつ。——名も惜しまぬ雑兵なら知らぬこと、東莱の太史慈とも名乗つた者が、汚(きた)ない逃げざまを、恥(はづか)しくないのか。返せ返せ。返さねばわが生涯、笑ひばなしとして、天下に吹聴(フイチヤウ)するぞ」と、わざと辱(はづか)しめた。
太史慈は、耳も無いやうに、走つてゐたが、やがて嶺をめぐつて、裏山の麓まで来ると、
「やあ孫策。やさしくも追つて来たな。その健気に愛(め)でゝ勝負してやろう。たゞし、改めて我れに立ちむかふ勇気があるか」と、馬を回(かへ)して云つた。
馳け寄せながら孫策は、
「汝は、口舌の匹夫で、真の勇士ではあるまい。さう云ひながらまた逃げ出すよ」
と、大剣を抜きはらつた。
「これでも、口舌の徒か」
太史慈は、やにはに槍をくりのばして、孫策の眉間(ミケン)を脅(おび)やかした。
「呀(あ)つ」
孫策は、突嗟(トツサ)に馬のたてがみへ顔を沈めたが、槍は、盔(かぶと)の鉢金(はちがね)をカチツと掠(かす)めた。
「おのれ!」
騎馬戦のむづかしさは、絶えず手綱を上手に操つて、敵の背後へ背後へと尾(つ)いてまはりながら馳け寄せる呼吸にある。
ところが、太史慈は、稀代な騎乗の上手であつた。
尾側(ビソク)へ狙(つ)け入らうとすると、くるりと駒を躍らせて、こつちの後(うしろ)へ寄つて来る。あたかも波上の小舟と小舟の上で斬りむすんでゐるやうなものである。従つて、腕の強さばかりでなく、駒の駈引(かけひき)も、虚々実々を極めるので、勝負はなか/\果(はて)しもない。無慮百餘合も戦つたが、双方とも淋漓(リンリ)たる汗と気息にもまれるばかりであつた。
「えおうツ」
「うオーツ」
声は、辺りの林に木魂(こだま)して、百獣も為(ため)に潜むかと思はれたが落つるは片々と散る木の葉ばかりで、孫策はいよ/\猛く、太史慈も益々(ます/\)精悍(セイカン)を加へるのである。
どつちも若い体力の持主でもあつた。この時孫策二十一歳、太史慈三十歳。——実に巡り会つたやうな好敵手だつた。
「組まねば〔だめ〕だ」
孫策が、さう考へた時、太史慈も心ひそかに、
「長びく間に、孫策の将士十三騎が追つて来ると面倒」
と、勝負を急ぎ出した。
〔だつ〕と、両方の鐙(あぶみ)と鐙とがぶつかつたのは、両人の意志が、期せずして、合致したものとみえる。
「喝(か)つ」
と、突出してくる槍を、孫策は交(かは)して柄(え)を抱(いだ)きこみ、突嗟、真二つになれと相手へ見舞つた剣の手元は、これも鮮(あざや)かに、太史慈の交(かは)すところとなつて、その手頸をにぎり取られ——おうつツ——と引き合ひ、押し合ふ合ふ(ママ)うちに、二つの体は、刎(は)ね躍つた馬の背から大地へころげ落ちてゐた。
空身(からみ)となつた奔馬は、忽ち、何処ともなく馳け去つてしまふ。
組んづ、ほぐれつ、太史慈と孫策とは、なほ揉み合つてゐたが、そのうち孫策は、蹌(よろ)めきざま太史慈が背にさしてゐた短剣を抜き取つて、突き伏せようとしたが、
「さはさせじ」
と、太史慈は亦、孫策の盔(かぶと)を引ツつかんで、離さなかつた。
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次回 → 好敵手(三)(2024年8月9日(金)18時配信)