第一回 → 黄巾賊(一)
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「違はぬ/\」
孫策は、振向きもしない。
供の諸将は、怪しんで、
「味方の陣地は、北の道を降りるのですが」
と、重ねて云ふと、
「だから南へ降りるのだ。こゝまで来て、空しく北へ降りるのは遺憾千万ではないか。……事のついでに、この谷を降り、彼方の嶺をこえて、敵の動静を探つて帰らう」
と孫策が初めて意を明かすと、さしも豪胆な武将たちも、びつくりした。
「えつ。この十三騎で?」
「密かに近づくには、むしろ小勢がよからう。臆病風にふかれて危ぶむ者は、帰つても苦しうないぞ」
さう云はれては、帰る者も諫める者もあるわけはなかつた。
渓流へ下りて、馬に水飼ひ、又一つの嶺をめぐつて、南方の平野をのぞきかけた。
すると早くも、その附近まで出てゐた劉繇の斥候(セツコウ)が、
「孫策らしい大将が、わづか十騎ばかりで、すぐあの山まで来てゐます」
と、中軍——即ち司令部へ馳けこんで急報した。
「そんなはずはない」
劉繇は、信じなかつた。
次の物見が又、
「慥(たしか)に孫策です」
と、告げて来ると、
「しからば計略だ。——敵の謀略にのつてかろ/゛\しく動くな」
と、尚更疑つた。
幕将の中でも下級の組に、年若いひとりの将校がゐた。彼はさつきから斥候の頻々たる報告を聞いて、ひとり疼々(うづ/\)しているふうだつたが、遂に、諸将のうしろから躍り出て叫んだ。
「天の与へといふものです。この時を外して何(ど)うしませう。どうか、それがしに、孫策を生け捕つて来いとお命じ下さい」
劉繇は、その将校を見て、
「太史慈。——又、広言を吐くか」
と、云つた。
「広言ではございません。かゝる時をむなしく過して、手を拱(こまね)いてゐる位(くらゐ)なら、戦場へ出ない方がましです」
「行け。それほど申すなら」
「有難うぞんじます」と一礼して、太史慈は勇躍しながら、
「おゆるしが出た。われと思はん者はつゞけ」
と、たつた一人、馬に跳び乗るが早いか、馳け出して行つた。
すると座中から又一名の若い武将が立ち上つて、
「孫策は、まことの勇将だ。見捨てゝはおけない」
と、馬を出して馳け去つた。
満座、みな大いに笑ふ。
一方、孫策は、敵の布陣をあらまし見届けたので、
「帰らうか」
と、馬を回(かへ)しかけてゐた。
ところへ、麓の方から、
「逃ぐるなかれ!孫策つ、逃ぐるなかれ!」
と、呼ばはる者がある。
「——誰だ?」
屹(キツ)と振返つてゐると、駒を躍らせて、それへ登つて来た太史慈は、槍を横たへて、
「その内に、孫策はなきか」
と、たづねた。
「孫策はこゝにをる」
「おツ。そちか孫策は」
「然(しか)り!汝は?」
「東莱の太史慈とは我がことよ。孫策を手(て)捕(どり)にせんため、これまで参つたり」
「はゝゝ。物ずきな漢(をとこ)」
「後(うしろ)に従ふ十三騎も、束になつて掛るがよい。孫策、用意はいゝか」
「何を」
槍と槍、一騎と一騎、火をちらして戦ふこと五十餘合、見るものみな酔へるが如く、固唾(かたづ)を呑んでゐたが、そのうちに太史慈は、わざと馬を打つて森林へ走りこんだ。孫策は、追ひかけながら、その背へ向つて、ぶうんと、槍を投げつけた。
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次回 → 好敵手(二)(2024年8月8日(木)18時配信)