第一回 → 黄巾賊(一)
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孫策の軍は、大勝を博したが、その日の大勝は、孫策にとつても、思ひがけない奇捷(キセウ)であつた。
「いつたい城中よりの火の手を揚げて、われに内応したのは何者か」
と、怪訝(いぶか)つてゐると、搦手(からめて)の山道からおよそ三百人ほどの手下を従へて、鉦鼓(シヤウコ)をうち鳴らし、旗をかゝげ、
「おーい。箭(や)を放つな。おれ達は孫将軍のお味方だ。敵の劉繇の手下と間違へられては困る」
呶鳴りながら降りて来る一群の兵があつた。
やがてその中から、大将らしい者が二人、
「孫将軍に会はせてくれ」
と、先へ進んで来た。
孫策は、近づけて、その二人を見るに、ひとりは、漆を塗つたやうな黒面に、太くして偉なる鼻ばしらを備へ、髯(ひげ)は黄にして、鋭い犬歯一本、大きな唇を嚙んでゐるといふ——見るからに猛気にみなぎつてゐる漢(をとこ)だつた。
又、もうひとりの方は、眼(まなこ)朗らかに、眉濃く、背丈すぐれ、四肢暢(の)びやかな大丈夫で、両名とも、孫策の前に〔つくねん〕と立ち、
「やあ、お初に」
「あなたが孫将軍で」
と、礼儀もよく辨(わきま)へない野人むき出しな挨拶の仕振(しぶり)である。
「君たちは、一体、誰かね」
孫策が、訊ねると、大鼻の黒面(コクメン)漢(をとこ)が、先に答へた。
「おれたち二人は、九江の潯陽湖(ジンヤウコ)に住んでいる湖賊の頭で、自分は公奕(コウエキ)といひ、こゝにゐるのは弟分の幼平(エウヘイ)といふ奴です」
「ホ。湖賊?」
「湖に船を泛(う)かべて住み、出ては揚子江を往来する旅泊の船を襲ひ、河と湖水を股にかけて稼いで来たんでさ」
「わしは良民の味方で、良民を苦しめる賊はすなはち我(わが)敵(テキ)だ。白昼公然と、わが前に現れたは何の意か」
「いや、実あ今度お前さんが此地方へ来ると聞いて、弟分の幼平と相談したんでさ。——いつまで俺たちも湖賊でもあるまいとね。それと、孫堅将軍の子ならきつと一〔かど〕の者だらう。征伐されちやあ堪(たま)らない。それよりいツそ足を洗つて、真人間に返らうぢやねえかといふわけで」
「ふム」
孫策は、苦笑した。そしてその正直さを愛した。
「——それにしても、手〔ぶら〕で兵隊の中へ加へておくんなせえと云つて出るのも智慧が無さ過ぎる。何か一手柄たてゝそれを土産に家臣に加へてくれと云へば待遇もいいだらう。——よからう、やらうと云ふわけで、一昨日(おととひ)の晩から、牛渚の砦(とりで)の裏山へ嶮岨(ケンソ)をよぢて潜りこみ、けふの戦で、城内の兵があらかた出たお留守へ飛びこみ、中から火を放(つ)けて、残つてゐる奴らをみなごろしに片づけて来たといふ次第なんで……。へい。何(ど)んなもんでせうか御大将。ひとつ、あつし共を、旗下に加へて使つておくんなさいませんか」
「はつゝゝゝ」
孫策は、手をたゝいて、傍らにいる周瑜や謀士の二張を顧みながら、
「どうだ、愉快な奴どもではないか。——然(しか)し、餘り愉快すぎる所もあるから、貴公等の仲間に入れて、すこし武士らしく仕込んでやるがいゝ」
と、云つた。
随身を許されて、二人は、喜色をたゝへながら、厳(いか)めしい顔を並べてゐる諸将へ向つて、
「へい、どうかまあ、これからひとつ、お昵懇(ジツコン)におねがひ申しやす」
と、仁義を切るやうなお辞儀をした。
一同もふき出した。けれど、当人は大真面目である。のみならず敵の兵糧倉からは兵糧を奪ひ取つて来るし、附近の小賊や、無頼(ブライ)漢(もの)などを呼び集めて来たので、孫策の軍は、忽ち四千以上の兵力になつた。
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次回 → 神亭廟(三)(2024年8月6日(火)18時配信)