第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 大江の魚(二)
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【前回迄の梗概】
後漢末の乱れた天下は、献帝一時難を辺地に避けるところまでに至り、洛陽還幸の後も緑林出身の暴状をも抑へ切れぬ有様であつた。此間にあつて山東の地に勢力を盛返しつゝあつたのが曹操である。帝は山東に走り、その力を借りて李、郭聯合軍を退けてしばし平穏の生活がつゞく。曹操は今や中央の権臣である。この間にあつて曹操はしきりに名将、謀臣を集めてゐる。帝はその奨めによつて河南の許昌へ遷都する。
旭日昇天の曹操にも目障りになる諸侯がある。徐州の玄徳、その客将呂布である。両者を相闘はさうといふ計略は玄徳の高邁な人格の力で失敗に終る。今度は勅令をもつて玄徳に南陽の袁術を攻めさせ、その留守を呂布に打たせる計を立てる。これは徐州城を預る張飛が禁酒の誓を破つたためにまんまとしてやられ梟雄呂布が徐州の主となり、玄徳は再び地に潜む龍として自らを慰める身となる。
さてこゝに呉の長沙の太守孫堅が遺児孫策は袁紹(ママ)の州府に脾肉を嘆じてゐる。これも亦(また)一個の風雲児である——
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「どうして袁術から兵をお借りになりますか」
子衡、君理のふたりは、孫策の胸を量(はか)りかねて、さう質(たゞ)した。すると孫策は、
「袁術が日頃から欲しがつてゐる物を、抵当として渡せば、必ず兵を借りうけられよう」
と、自信ありげに微笑した。
——袁術の欲しがつてゐる物?
二人は小首をかしげたが解らなかつた。更に、それはなにかと訊くと、孫策は自分の肌を抱きしめるやうにして
「伝国の玉璽!」
と、強く云つた。
「えつ?……玉璽ですつて」
二人は疑はしげな顔をした。
玉璽といへば、天子の印章である。国土を伝へ、大統を継ぐには無くてはならない朝廷の宝器である。ところがその玉璽は、洛陽の大乱のみぎりに、紛失したといふ沙汰が専らであつた。
「あゝでは……。伝国の玉璽は、今では、あなたのお手に有つたのですか」
子衡は唸るやうに訊ねた。——洛陽大乱の折、孫策の父孫堅が、禁門の古井戸から発見して、それを持つて国元へ逃げたといふ噂は当時隠れもないことであつた。子衡はふと、その頃の風説を思ひ起したのであつた。
孫策は、あたりを見廻して
「ウム。これに」
と、再び自分の胸を慥(しか)と抱いて見せながら云ひ出した。
「亡父(ちち)孫堅から譲られて、常に肌身に護持してをるが、いつか袁術はそれを知つて、この玉璽に垂涎(スヰゼン)を禁じ得ないふうが見える。——元々、彼は身の程も知らず、帝位に即(つ)かうとする野心があるので、それには、玉璽をわが物にしなければと考えてをるものらしい」
「なる程、それで読めました。袁術があなたを我が子のやうに愛しているわけが」
「彼の野心を知りながら、知らぬやうな顔をしてゐたればこそ、自分も無事にけふまで袁術の庇護をうけて来られたのだ。いはゞ此身を守り育てゝくれたものは、玉璽のお蔭といつてよい」
「然(しか)し、その大切な玉璽を、袁術の手へ、お渡しになる御決心ですか」
「いかに大事な品であらうと、この孫策は、一箇の小筐(こばこ)の中になど大志は寄せぬ。わが大望は天地に持つ」
孫策の気概を見て、二人は悉(ことごと)く心服した。その日、三名のあひだに、約束はすつかり出来てゐた。
日を経て、孫策は、寿春城の奥まつた所で、袁術にかう訴へた。
「いつか三年の御恩になりました。その御恩にも酬(むく)いず、かういふお願ひをするのは心苦しい極みですが、先頃、故郷から来た友達の話を聞くと、叔父の呉景が、楊州の劉繇(リウエウ)に攻めたてられ、身の置き所もない逆境だといふことです。曲阿にのこしてある私の母や叔母や幼い者たちも、一家一族、非運の底に顫(おのゝ)いてゐると聞きます……」
孫策はさし俯(うつ)向(む)いて、涙声になりながら云ひつゞけた。
「——お蔭で私も、はや二十一となりましたが、未だ父の墓も掃(は)かず、日々安閑としてゐるのは、勿体なくもあり、又、腑がひない心地もします。どうか一軍の雑兵を私にお貸し下げください。江を渡つて、叔父を救け、いさゝか亡父の霊をやすめ、せめて母や妹たちの安穏を見て再び帰つて参りますから」
彼は、さう云ひ終ると、黙然と考へこんでゐる袁術の眸の前へ——伝国の玉璽の入つてゐる小筐(こばこ)を恭(うやうやし)くさゝげて出した。
「……?」
眼は心の窓といふ。一目それを見ると、袁術の顔はぱつと赭(あか)くなつた。つゝみきれない歓びと野望の火が、眸の底に赫々とうごいた。
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次回 → 大江の魚(四)(2024年8月2日(金)18時配信)