第一回 → 黄巾賊(一)
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君理は、孫策の意中を聞くと、共に嘆じた。
「あゝ、やはりさうしたお心でしたか。少年日月早し。——鬱勃たるお嘆きは蓋(けだ)し当然です」
「わかるだらう、君理。……わしの悶々たる胸のうちが」
「日頃から拝察してゐます。わたくしも、呉に生れた一人ですから」
「祖先の地を失つて、他国の客となり、青春二十一、なほ空しく山野に鳥獣を趁(を)ふ。……嗚呼(あゝ)、わしは考へると、今の境遇に耐へられなくなる」
「御曹司……孫策様……。それほどまでに思し召すなら、なぜ大丈夫たるもの、思ひきつて、亡き父上の業を継がうとしないのです」
「でも、わしは一介の食客だ。いかに袁術が可愛がつてくれても、わしに獣を趁(を)ふ狩猟弓は持たせても、大事を興す兵馬や弓(ゆみ)箭(や)は持たせてくれない」
「ですから、その温床に甘えてはいけません。——あなたを甘やかすもの、愛撫するもの、美衣美食、贅沢な生活。すべてあなたの青春を弱める敵です」
「でも、袁術の情にも、裏切れない」
「そんな優柔不断は、御自身で蹴つてしまはなければ、生涯、碌々(ロク/\)と終るしかありますまい。——澎湃(ハウハイ)たる世上の風雲をごらんなさい、かういふ時代に生れ会ひながら、綿々たる愚痴に囚(とら)はれていてどう成りませう」
「さうだ。真実、わしもそれを痛感してゐるのだ。——君理、どうしたらわしは、何不自由もない今の温床を脱して、生き効(が)ひのある苦難と闘ふ時代の子となれるだらうか」
「あなたの叔父様に、不運な方があるでせう。——え、丹陽(タンヤウ)の太守であつた」
「ウむ。母方の舅(をぢ)、呉景(ゴケイ)のことかね」
「さうです。呉景どのは今、丹陽の地も失つて、落(おち)魄(ぶ)れてゐるとか伺(うかゞ)ひましたが……その逆境の叔父御を救ふためと称して、袁術に暇(いとま)を乞ひ、同時に兵をお借りなさい」
「なる程!」
孫策は、大きな眼をして、夕空を渡る鳥の群を見あげながら凝(ぢつ)と考へこんでゐた。
すると、さつきから木陰に佇(たゝづ)んで、二人の話を熱心に立ち聞きしてゐたものがある。
二人の声が途切れると、づかづかとそれへ出て来て、
「やよ、江東の麒麟児、何をためらふ事があらう。父業を継いで起ち給へ。不肖ながらまづ第一に、わが部下の兵百餘人をつれて、真つ先にお力を副(そ)へ申さう」
と、唐突に云つた。
驚いて、二人が
「何物?」
と、その人を見れば、これは袁術の配下で、この辺の郡吏を勤めてゐる呂範(リヨハン)字を子衡(シカウ)といふ男であつた。
(子衡は一かどの謀士である。)
と家中でもその才能は一部から認められてゐた。孫策は、この知己を得て、非常な歓びを覚えながら
「そちも亦(また)、わが心根をひそかに憐れむ者か」
と、云つた。
子衡は、誓言を立てゝ、
「君、大江を渡るなれば」
と、孫策を見つめた。
孫策は、火の如き眸に答へながら
「渡らん、渡らん、大江の水。溯(のぼ)らん、溯らん、千里の江水(カウスヰ)。——青春何ぞ、客園の小池(セウチ)に飼はれて蛙魚泥貝(アギヨデイバイ)の徒と共に、惰眠をむさぼらんや」
と叫ぶと、忽然と起つて、片手の拳を天に振つた。
子衡は、その意気を抑へて、
「然(しか)し、孫策様。てまへが推量いたすに、袁術は、決して兵を貸しませんぞ。何と頼んでも、兵だけは貸しません。——その儀はどうなさいますか」
「心配するな。覚悟さへ決めたからには、この孫策に考へがある」
弱冠、早くも孫策は、この一語のうちに、未来の大器たるの片鱗を示してゐた。
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次回 → 大江の魚(三)(2024年8月1日(水)18時配信)