第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 母と妻と友(五)
***************************************
大河は大陸の動脈である。
支那大陸を生かしてゐる二つの大動脈は、いふ迄(まで)もなく、北方の黄河と、南方の揚子江とである。
呉(ゴ)は、大江の流れに沿うて、「江東の地」と称(い)はれてゐる。
爰(こゝ)に、呉の長沙の太守孫堅の遺子(わすれがたみ)孫策も、いつか成人して、当年二十一歳の好青年となつてゐた。
「彼は、親まさりである。江東の麒麟児(キリンジ)とは、彼であらう」
世間でも、父の遺臣の中でも、彼の成長に期する者は多かつたが、如何せん、父孫堅の屍を曲阿の原に葬つて、惨たる敗軍をひいて帰つたその年は、まだ年歯わづか十六歳で——。以来、賢をあつめ、兵を練り、ひそかに家名の再興を計つてゐたが、逆境のつゞく時はどうしようもなく、遂にその後長沙の地を守りきれない悲運に会してしまつた。
「時節が来たらお迎へに来ますから、暫く、田舎に隠れてゐて下さい」
彼は、老母と一族を、曲阿の身寄(みより)へあづけておいて、十七歳の頃から諸国を漂泊した。
ひそかに誓ふ大志を若い胸に秘めて、国々の人情、地理、兵備などを見て歩いた。いはゆる武者修行の辛酸をつぶさに嘗(な)めて遍歴したのである。
そして、二年ほど前から、淮南に足をとめて、寿春城(ジユシユンジヤウ)の袁術の門に、食客として養はれてゐた。
袁術と、亡父(ちち)孫堅とは、交はりのあつた仲であるのみならず、孫堅が劉表と戦つて、曲阿の地で討死したのも——まつたく袁術の使嗾(シソウ)があの合戦の動機でもあつたから、——袁術も同情して、
「わが手許にをるがよい」
と、特にひきとめて、子の如く愛してゐたのであつた。
その間、涇(ケイ)県の戦に出て、大功をあらはし盧江(ロカウ)の陸康(リクカウ)を討伐に行つて、比類なき戦績をあげた。
平常は書もよみ、挙止(キヨシ)物静かで、よく人に愛賢(アイケン)を持つてゐたので、こゝでも、
「彼は、大江の厥魚(ケツギヨ)だ」
と、人々に嘱目されてゐた。
その孫策は、ことし二十一。——暇あれば、武技を練り、山野に狩猟(かり)して、心身を鍛へてゐたが、その日も、わづかな従者をつれて、伏牛山(フクギウザン)に一日を狩り暮し、
「あゝ、くたびれた」
と、中腹の岩に腰かけて、荘厳なる落日の紅雲をながめてゐた。
袁術の州府寿春城から淮南一帯の町々や部落は、目の下に指される。
——蜿々(うね/\)とそこを流れてゐる一水は淮河の流れである。
淮河は狭い。
大江の流域からくらべれば比較にならないほどである。然(しか)し、孫策は、
「あゝ、何日(いつ)の日か、大江の水にのせて、わが志を展(の)べる時が来ることか」
と、すぐ江東の天に思ひを馳せずにはをられなかつた。
「曲阿の母は」
と憶(おも)ひに沈み
「いつ、恥なき子として、父の墳墓の草を掃くことができるだらうか」
と独り嘆じてゐた。
すると、物蔭に休んでゐた従者のひとりががさ/\と、歩み寄つて来て、
「御曹子、何を無益に嘆き給ふか。——あなたは、前途ある青年ではないか。この落日は明日のない落日ではありませんぞ」
と、云つた。
誰かと驚いてみると、朱治(シユチ)字(あざな)は君理(クンリ)、その以前、父孫堅の家臣のひとりだつたと云ふ者である。
「おゝ、君理か。けふも一日暮れてしまつた。
山野を狩りして何にならう。
わしは毎日空しくかういふ日を過してゐるのが、天地にすまない気がするのだ。一日として、それを心に詫びない日はない、徒(いたづ)らに、慕郷の情に囚(とら)はれて、女々(めめ)しく哭(な)いてゐるわけではないよ」
孫策は、真面目に云つた。
***************************************
次回 → 大江の魚(二)(2024年7月31日(水)18時配信)