第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 母と妻と友(二)
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突然、剣を抜いて、張飛が自刃しようとする様子に、玄徳は、吃驚(びつくり)して、
「関羽。止めよつ」
と、叫んだ。
あつと、関羽は、張飛の剣を奪(と)り上げて、
「何をするつ。莫迦(ばか)なつ」
と、叱りつけた。
張飛は、身(み)悶(もだ)えして、
「武士の情に、その剣で、この頭を刎(は)ね落してくれ。何の面目あつて生きてゐられようか」
と、慟哭した。
玄徳は、張飛のそばへ歩み寄つて、病人を宥(いた)はるやうな言葉で云つた。
「張飛よ。落付くがいゝ。いつまで返らぬ繰り言を云ふのではない」
優しく云はれて、張飛は猶(なほ)さら苦しげだつた。むしろ笞(しもと)で打ツて打ツて打ちすゑて欲しかつた。
玄徳は膝を折つて彼の手を握り取り、慥(しか)と、手に力をこめて、
「古人の云つた言葉に——兄弟ハ手足ノ如ク、妻子ハ衣服ノ如シ——とある。衣服は綻(ほころ)ぶも是(こ)れを縫へばまだ纏(まと)ふに足る。けれど、手足はもしこれを断つて五体から離したなら何時の時か再び満足に一体となることができよう。——忘れたか張飛。われ等三人は、桃園に義を結んで、兄弟の杯をかため、同年同日に生るゝを求めず、同年同日に死なん——と誓ひ合つた仲ではなかつたか」
「……はつ。……はあ」
張飛は大きく嗚咽(オエツ)しながら頷(うなづ)いた。
「われら兄弟三名は、各々(おの/\)がみな至らない所のある人間だ。その缺点や不足をお互(たがひ)に補ひ合つてこそ初めて真の手足であり一体の兄弟と云へるのではないか。そちも神ではない。玄徳も凡夫である。凡夫のわしが、何を以て、そちに神の如き万全を求めようか。——呂布の為(ため)に、城を奪はれたのも是非のないことだ。又(また)如何(いか)に呂布でも、何の力もない我が母や妻子まで殺すやうな酷(むご)い事もまさか致しはすまい。そう嘆かずと、玄徳と共に、この後とも計をめぐらして、我が力になつてくれよ。……張飛、得心(トクシン)が参つたか」
「……はい。……はい。……はい」
張飛は、鼻柱から、ぽと/\と涙を垂らして、いつ迄(まで)も、大地に両手をついてゐた。
玄徳のことばに、関羽も涙をながし、そのほかの将も、感に打たれぬはなかつた。
その夜、張飛はたゞ一人、淮陰の河べりへ出て、猶(なほ)、哭(な)き足らないやうに月を仰いでゐた。
「愚(グ)哉(や)!愚哉!……おれはどこ迄(まで)も愚物だらう。死なうとしたのも愚だ。死んだら詫びがすむと考へたのも、実に愚だ。——よしつ、誓つて生きよう。そして家兄玄徳のために、粉骨砕身する。それこそ今日の罪を詫び、今日の辱を雪(そゝ)ぐものだ」
大きな声で、独り言を洩らしてゐた。その顔を、辺(ほと)りにゐた馬が、不思議さうにながめてゐた。
馬は月に遊んでゐた。河の水に戯れ、草を喰(は)んで、明日の英気を養つてゐるかに見える。
——その夜、合戦はなかつた。
次の日も、これといふ程な戦ひもない。前線の兵は、敵もうごかず味方も動かずであつた。時折、矢と矢が交はされる程度で、猶(なほ)、幾日かを対陣してゐた。
ところが。
その間に、早くも、袁術の方では、手をまはして徐州の呂布へ、外交的に働きかけてゐた。
「もし足下が、玄徳の後を攻めて、わが南陽軍に利を示すならば、予は戦後君に対して、糧米五万石、駿馬五百匹、金銀一万両、緞子(ドンス)千匹を贈るであらう」
と、いふ好餌(カウジ)を以(もつ)て、呂布を抱きこみにかゝつたのである。
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次回 → 母と妻と友(四)(2024年7月27日(土)18時配信)