第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 母と妻と友(一)
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さて、玄徳の方では、留守の徐州にそんな異変が起つたとは知るはずもなく、敵の紀霊を追つて、その日、淮陰の河畔へ陣をすゝめてゐた。
黄昏(たそがれ)頃——
関羽は部下を従へて、一巡り前線の陣地を見廻つて戻つて来た。
すると、歩哨の兵が、
「敵か」
「敵らしいぞ」
と、野末(のずゑ)の方へ、小手をかざして躁(さは)ぎ合つてゐる。
見ると、成程、舂(うすづ)きかけた曠野の果(はて)から、夕陽を負つてとぼ/\と此方へ向つて来る一(ひと)群(むれ)の人馬がある。
関羽も、怪訝(いぶか)しげに見まもつてゐたが、そのうちに、此方から慥(たし)かめるべく馳けて行つた兵が、
「張大将だ。張飛どのと、ほか十八騎の味方がやつて来られるのだ」
と、大声で伝へてきた。
「何。……張飛が来た?」
関羽はいよ/\怪しんだ。こゝへ来るわけのない彼が来たとすれば、——これは吉事でないに決つてゐる。
「何事が起つたのか?」
顔を曇らして待つてゐた。
程なく、張飛と十七、八騎の者は、落武者の姿もみじめに、それへ来て駒を下りた。
関羽は、彼の姿を見たとたんに、胸へ〔ずき〕と不吉な直感をうけた。いつもの張飛とは別人のやうだからである。元気もない。ニコともしない。——あの豪放(ガウハウ)磊落(ライラク)な男が、悄(しほ)れ返つて、自分の前に頭を下げてゐるではないか。
「おい、何(ど)うしたんだ」
肩を打つと、張飛は、
「面目ない、生きて御身や家兄に合(あは)せる顔もないんだが、……ともかく罪を謝すために、恥をしのんでこれ迄(まで)やつて来た。どうか、家兄に取次いでくれい」
と、力なく云つた。
兎も角と、関羽は張飛を伴つて玄徳の幕舎へ来た。玄徳も、
「え。張飛が見えたと?」
驚きの目で彼を迎へた。
「申しわけございません」
張飛は平蜘蛛のやうにそれへ平伏して、徐州城を奪はれた不始末を報告した。——あれほど誓つた禁酒の約を破つて、大酔した事も、正直に申し立てゝ面も上げず詫び入つた。
「…………」
玄徳は黙然としてゐたが、やがて訊ねた。
「ぜひもない。だが母上はどうしたか。わが妻子は無事か。母や妻子さへ無事ならば、一城を失ふも時、国を奪はるゝも時、武運だにあらば又われに回(かへ)る時節もあらう」
「…………」
「張飛。なぜ答へぬか」
「……はい」
張飛らしくもない蚊の啼くやうな声だ。彼は鼻をすゝつて泣きながら云つた。
「愧死(キシ)しても足りません。大酔してゐた為(ため)、ついその……後閣へ馳(はし)つて、城外へお扶けする遑(いとま)もなく」
聞くや否、関羽は急(せ)きこんで、
「では、御母堂も、御夫人も、御子様たちも、呂布の手にゆだねたまゝ、汝(な)れひとり落ちて来たのかつ」
と赫(かつ)となつた。
「噫(あゝ)つ、この俺はどうしてこんな愚物に生れて来たか。家兄おゆるし下さい。——関羽、嘲(わら)つてくれい」
張飛は、泣きながら、さう叫んで、二つ三つ自分の頭を自分の拳(こぶし)で撲(なぐ)りつけたが、それでもまだ「愚鈍なる我」に対して腹が癒えないとみえてやにはに剣を抜いて、自ら自分の首を刎(は)ね落さうとした。
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次回 → 母と妻と友(三)(2024年7月26日(金)18時配信)