第一回 → 黄巾賊(一)
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呂布は、呂布らしい爪牙(サウガ)をあらはした。猛獣は遂に飼主の手を咬(か)んだのである。
けれど彼は元来、深慮遠謀な計画の下にそれをやり得るやうな悪人型ではない。猛獣の発作のごとく至つて単純なのである。欲望を達した後は、密かに気の小さい良心にさへ咎められてゐるふうさへ見える。
それかあらぬか、彼は、徐州城を占領すると、即日城門の往来や町の辻に、次のやうな高札など建てゝ、自身の心に言訳(いひわけ)をしてゐた。
公 布
われ久しく玄徳が恩遇を享(う)く。
今、是(かく)かくのごとしと雖(いへど)も、
忘恩無情の挙にあらず。
城中の私闘を鎮(しづ)め、
利敵の徒を追ひ、
征後の禍根を除きたるまでなり。
それ軍民ともに速(すみや)かに
平日の務めに帰し、
予が治下に安んぜよ。
呂布は又、自身、城の後閣へ臨んで、
「婦女子の捕虜(とりこ)を手荒にいたすな」
と、兵士たちを戒めた。
後閣には、玄徳の家族たちが住んでゐた。併(しか)し、落城と共に、召使(めしつかひ)の婦女子を除いて、その餘の主なる人々はみな逃げ落ちたことであらうと思つてゐたところ、意外にも、奥まつた仄(ほの)暗(ぐら)い一室に、どこか気品のある老母と若い美婦人と幼な児(ご)たちが、一かたまりになつて、凝(じつ)と、佇(たゝず)んでゐるのを見出した。
「お……おん身等は、劉玄徳の家族たちか」
呂布は、すぐ察した。
ひとりは玄徳の母。
その傍らにあるのは夫人。
手をひいてゐる幼な児たちは玄徳の子であらう。
「……」
老母は、何も云はない。
夫人もうつろな眼をしてゐる。
たゞ、白い涙のすぢが、その頰をながれてゐた。そして、——何(ど)うなることか?
と、恐怖してゐるものゝ如く、無言のうちに、微(かす)かな顫(おのゝ)きを、その青白い顔、髪の毛、唇などに見せてゐた。
「はゝゝ、あはゝゝ」
呂布は突然笑つた。
わざと、笑ひを見せるために、笑つたのであつた。
「夫人。御母堂。——安心するがよい。わしは御身等のごとき婦女子を殺すやうな無慈悲な者ではない。……それにしても、主君の家族等を捨てゝ、逃げ落ちた不忠な奴輩(やつばら)は、どの面(つら)さげて、玄徳にまみえるつもりか、いかに狼狽したとはいへ、見さげ果てた者共ではある」
呂布は、傲然と、さう呟きながら、部将を呼んで、吩(いひ)咐(つ)けた。
「玄徳の老母や妻子を、士卒百人で守らせておけ、猥(みだ)りにこの室へ人を入れたりなどしてはならんぞ。又、護衛の者共も、無慈悲な事のなきやうにゐたせよ」
呂布は又、さう言(いひ)渡してから、夫人と老母の姿を見直した。こんどは安心してゐるかと思つたからである。
——が、玄徳の母も、夫人の面も、石か珠のやうに、血の気もなく、又、何の表情も示さなかつた。
涙のすぢは、止めどなく、二つの面にながれてゐる。そして物を云ふことを忘れたやうに、唇をむすんでゐた。
「安心せい。これで、安心したであらう」
呂布は恩を押売(おしうり)するやうに云つたけれど、夫人も老母もその頭を下げもしなかつた。歓びや感謝の念とは似ても似つかない恨みのこもつた眼の光りが、涙の底から針のやうに、呂布の面を、凝(じつ)と射てゐた。
「さうだ。これから俺はいそがしい身だ。——こらつ番士、屹度(きつと)、護衛を申しつけたぞ」
呂布は、自分を誤魔化すやうに、さう云ひちらして立ち去つた。
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次回 → 母と妻と友(二)(2024年7月25日(木)18時配信)