第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 禁酒砕杯の約(五)
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「開門!開門つ」
呂布は、城門の下に立つと、大声でどなつた。
「戦場の劉(リウ)使君(シクン)より火急の事あつて、それがしへ使(つかひ)を馳せ給ふ。その儀に就(つい)て、張将軍に計ることあり。こゝを開けられよ」
と、打ち叩いた。
城門の兵は、楼から覗(のぞ)いたが、何やら様子がをかしいので、
「一応、張大将に伺つてみた上でお開け申す。しばらくそれにてお控へあれ」
と、答へておいて、五、六人の兵が、奥へ告げに行つたが、張飛の姿が見あたらない。
その間に、城中の一部から、思ひもよらぬ喊(とき)の声が起つた。曹豹が、裏切りを始めたのである。
城門は、内部から開かれた。
「——それつ」
と、ばかり呂布の勢は、潮のごとく入つて来た。
張飛は、あれからもだいぶ飲んだとみえて、城廓の西園へ行つて酔ひつぶれ、折ふし夕方から宵月もすばらしく冴えてゐたので、
——あゝいゝ月だ!
と、一言、独り語(ごと)を空へ吐いたまゝ前後不覚に眠つてゐたのであつた。
だから幾ら望楼の上だの、彼の牀(シヤウ)のある閣などを兵が探しまはつても、姿が見えないはずだつた。
そのうちに、
「……やつ?」
喊(とき)の声に、眼がさめた。——剣の音、戟(ほこ)のひゞきに、愕然と突つ立ち上がつた。
「しまツた!」
猛然と、彼は、城内の方へ馳け出して行つた。
が、時すでに遅し——
城内は、上を下への混乱に陥つてゐる。足につまづく死骸を見れば、みな城中の兵だつた。
「うぬ、呂布だなつ」
気がついて、駒にとび乗り、丈八の大矛(おほほこ)をひツ提(さ)げて広場へ出てみると、そこには曹豹に従ふ裏切者が呂布の軍勢と協力して、魔風の如く働いてゐた。
「目にもの見せむ」
と、張飛は、血しほをかぶつて、薙(な)ぎまはつたが、いかんせん、まだ酒が醒めきれてゐない。大地の兵が、天空に見えたり、天空の月が、三ツにも四ツにも見えたりする。
況(いは)んや、総軍の纏(まとま)りはつかない。城兵は支離滅裂となつた。討たれる者より、討たれぬ前に手をあげて敵へ降服してしまふ者の方が多かつた。
「逃げ給へ」
「ともあれ一時こゝを遁れて——」
と、張飛を取り囲んだ味方の部将十八騎が、無理やりに彼を混乱の中から退(ひ)かせ、東門の一ケ所をぶち破つて、城外へ逃げ走つて来た。
「どこへ行くのだつ。——どこへ連れて行くのだ」
張飛は、喚(わめ)いてゐた。
まだ酒の気が残つてゐて、夢でも見てゐるやうな心地がしてゐるものとみえる。
すると、後(うしろ)から、
「やあ、卑怯だぞ張飛。返せ返せつ」
と、百餘騎ばかりを従へて、追ひかけて来る将があつた。
前の恨みをそゝがんと、腕きゝの兵(つはもの)ばかりを選りすぐつて、追ひつゝみに来た曹豹であつた。
「何を」
張飛は、引つ返すや否、その百餘騎を枯葉のごとく蹴ちらして、逃げる曹豹を、真二つに斬りさげてしまつた。
血は七尺も噴騰して月を黒い霧にかすめた。満身の汗となつて、一斗の酒も発散してしまつたであらう、張飛は、ほつとわが姿を見まはして、
「嗚呼(あゝ)!」
急に泣き出したいやうな顔をした。
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次回 → 母と妻と友(一)(2024年7月24日(水)18時配信)