第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 禁酒砕杯の約(四)
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曹豹は、勃然と怒つて、
「おのれ、何とて我れを辱(はづ)かしめるか。よくも衆の前で蹴つたな」
起き直つて、つめ寄つた。
張飛は、その顔へ、虹のやうな酒の息を吐きかけて、
「蹴(け)仆(たふ)したが悪いか。汝は文官だろう。文官のくせに、大将たる俺に向つて、猪口才(チヨコザイ)なことを申すから懲(こら)しめた迄(まで)だ」
「友の忠言を」
「貴様のやうな奴はわが友ではない。酒も飲めぬくせに」
と又、鉄拳をふり上げて、曹豹の顔を撲(は)りとばした。
見るに見かねて、兵卒たちが、張飛の腕につかまつたり腰にたかつたりして止めようとしたが、
「えゝい、うるさい」
と、一(ひと)揺(ゆ)すり体を振ると、みな振り飛ばされてしまつた。
「わはゝゝゝゝ、逃げやがつた。見ろ、見ろ、曹豹のやつが、俺に撲られた顔を抱へて逃げてゆく態(ざま)を。あゝ愉快、あいつの顔はきつと、樽のやうに膨れあがつて、今夜一晩ぢう唸(うな)つて寝るにちがひない」
張飛は、手をたゝいた。
そして兵隊を対手(あひて)に、角力を取らうと云ひ出したが、誰も寄りつかないので、
「こいつら、俺を嫌ふのか」
と、大手をひろげて、逃げ廻る兵を追ひかけまはした。まるで、鬼と子供の遊戯の図でも見るやうに。
一方の曹豹は、熱をもつた顔を抱へて、どこやらへ姿を隠してしまつたが、
「……ウヽム、無念だ」
と、顔のづき/\痛むたびに、張飛に対する恨みが骨髄にまで沁(し)みてきた。
「どうしてやらう?」
ふと、彼は怖(おそろ)しい一策を思ひついた。早速、密書を認(したゝ)めて、それを自分の小臣(こもの)に持たせて、密(ひそ)かに、小沛の県城へ走らせた。
小沛までは、幾らの道程(みちのり)もない。徒歩で走れば二(ふた)刻(とき)、馬で飛ばせば一刻ともかゝらない。およそ四十五里(支那里)の距離であつた。
ちやうど、呂布は眠りについたばかりの所だつた。
そこへ腹心の陳宮が曹豹の小臣から事情を聞きとつて、密書を手に入つて来た。
「将軍、お起きなさい。——将軍将軍、天来の吉報ですぞ」
「誰だ。……眠い。さう揺り起すな」
「寝てゐる場合ではありません。蹶起(ケツキ)すべき時です」
「何だ……陳宮か」
「まあ、この書面を御一読なさい」
「どれ……」
と、漸(やうや)く身を起して、曹豹の密書を見ると、今徐州の城は張飛一人が守つてゐるが、その張飛も今日はしたゝかに酒に酔ひ、城兵も悉(こと/゛\)く酔ひ乱れてゐる。明を待たず兵を催して、この授け物を受けに参られよ。曹豹、城内より門を開いて呼応(コオウ)仕(つかまつ)らん——とある。
「天の与へとはこの事です。将軍、すぐお支度なさい」
陳宮が急(せ)きたてると、
「待て待て。いぶかしいな。張飛はこの呂布を目の難(かたき)にしてゐる漢(をとこ)だ。俺に対して油断するわけはないが」
「何を迷うて居られるのです。こんな機会を逸したら、二度と、風雲に乗ずる時はありません」
「大丈夫かな?」
「常のあなたにも似(に)合(あは)ぬ事だ。張飛の勇は恐るべきものだが、彼の持(もち)前(まへ)の酒狂は、以て此方の乗ずべき間隙です。こんな機会をつかめぬ大将なら、私は涙をふるつて、あなたの側から去るでせう」
呂布も遂(つひ)に意を決した。
赤兎馬は、久しぶりに、鎧甲(ガイカフ)大剣の主人を乗せて、月下の四十五里を、尾を曳いて奔つた。
呂布につゞいて、呂布が手飼(てがひ)の兵およそ、八、九百人、馬やら徒歩(かち)やら、押つとる得物も思ひ/\に我れおくれじと徐州城へ向つて馳けた。
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次回 → 禁酒砕杯の約(六)(2024年7月23日(火)18時配信)