第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 禁酒砕杯の約(三)
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さて又。
留守城の徐州では、
「者共、警備を怠るな」
と、張飛は張切つて、日夜、望楼に立ち、家兄玄徳の軍旅の苦労を偲(しの)んで、自分も軍衣を解いて牀(シヤウ)に長々と寝るといふこともなかつた。
「さすがは張将軍である」
と、留守の将士も服してゐた。彼の一手一足に軍律は守られてゐた。
けふも彼は、城内の防塁を見廻つた。皆、よくやつてゐる。城中でありながら士卒も部将も、野営同様に、土に臥し、粗食に甘んじている。
「感心々々」
彼は、士卒の中を、賞(ほ)め歩いてゐた。——が、その感賞を、張飛は、言葉だけで、世辞のやうに振り撒(ま)いて歩いてゐるのは、何だか気がすまなかつた。
「弓も絃(つる)を懸(かけ)たまゝにして、おいては弛(ゆる)んでしまふ。稀(まれ)には、絃を外して、暢(の)びるのもよい事だ。——その代り、いざとなつたら直ぐピンと張れよ」
かう云つて、彼は、封印しておいた酒蔵から、大きな酒瓶(さかがめ)を一箇、士卒に担はせて来て、大勢の真ん中へ置いた。
「さあ飲め、毎日、御苦労であるぞ。——これは其方どもの忠勤に対する褒美だ。仲よく汲みわけて、今日は一献づゝ飲め」
「将軍、よろしいのですか」
部将は、怪しみ、且(かつ)、惧(おそ)れた。
「よい/\、おれが許すのだ。さあ卒共、こゝへ来て飲め」
元より士卒たちは、雀躍(こをどり)してみなそこに集まつた。——だが、それを眺めて、少し〔ぼんやり〕してゐる張飛の顔を見ると、何か悪い気がして、
「将軍は、お飲(あが)りにならないのですか」
と、訊ねた。
張飛は、首を振つて、
「おれは飲まん、おれは、杯を砕いてをる」
と、立ち去つた。
併(しか)し、他の屯(たむろ)へ行くと、そこにも不眠不休の士卒が、大勢、城壁を守つているので、
「こゝへも一瓶持つてこい」
と又、酒蔵から運ばせた。
彼方の兵へも、此方の兵へも、張飛は、平等に飲ませてやりたくなつた。酒蔵の番をしてゐる役人は、
「もう十七瓶も出したから、これ以上は、おひかへ下さい」
と、扉に封をしてしまつた。
城中は、酒のにほひと、士卒たちの歓声に賑(にぎ)はつた。どこへ行つても紛々と匂ふ。張飛は、身の置き所がなくなつた。
「お一杯(ひとつ)くらゐはよいでせう」
士卒のすゝめたのを、つい手にして舌へ流しこむと、もう堪(たま)らなくなつたものか、
「こら/\つ。その柄杓(ひしやく)で、それがしにも一杯よこせ」
と、渇いてゐる喉へ水でも流しこむやうに、がぶ/\、立て続けに、二、三杯飲んでしまつた。
「なに、酒蔵役人がもう渡さんと。——ふ、ふ、不埒(フラチ)な事を申すやつだ。張飛の命令であると云つて持つてこい。もし、嫌の応のと云つたら、一小隊で押し襲(よ)せて、酒蔵を占領してしまへ。……あははゝゝ」
幾つかの酒瓶を転がして、自分の肚も酒瓶のやうになると、彼はしきりと、
「わはゝゝ。いや愉快々々、誰か勇壮な歌でも唄へ。其方共がやつたら俺もやるぞ」
酒蔵役人の注進で、曹豹(サウヘウ)が、びつくりして駆けつけて来た。見ればこの態(テイ)〔たらく〕である。——啞然として、呆(あき)れ顔してゐると、
「やあ、曹豹か。どうだ、君も一杯やらんか」
張飛が酒柄杓をつきつけた。
曹豹は、振払つて、
「これ!貴公はもう忘れてゐたのか。あれほど広言した誓約を」
「何をぶつぶつ云ふ。まあ一杯やり給へ」
「馬鹿なつ」
「何。馬鹿なとは何だつ。この芋蟲(いもむし)めツ」
いきなり酒柄杓で、曹豹の顔を撲(なぐ)りつけ、呀(あ)ツと驚くまに、足を上げて蹴倒した。
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次回 → 禁酒砕杯の約(五)(2024年7月22日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。