第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 禁酒砕拓(ママ)の約(一)
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玄徳の決意は固い。
糜竺をはじめ諸臣は皆、それを知つたので口をつぐんだ。
孫乾(ソンケン)が云ひ出した。
「どうしても、勅を奉じて、南陽へ御出陣あるならば、第一に、後の用心が肝要でありませう。誰に徐州の留守をおあづけなさいますか」
「それがだ」
と玄徳も熟考して、
「関羽か張飛のうちの何(いづ)れか一名を残して行かねばなるまい」
関羽は、進み出て、
「願はくば、それがしに仰せつけ下さい。後顧の憂(うれひ)なきやう必ず留守してをりまする」
と、自薦して出た。
「いやいや、其方(そち)なら安心だが、其方は、朝夕(テウセキ)事を議すにも、又何かにつけても、玄徳の側に無くてはならぬ者。……はて、誰に命じたものか?」
と、玄徳が沈思してゐると、つと、張飛は一歩進み出して、例のやうに快然と云つた。
「家兄。この徐州城に人も無きやうに、何を御思案あるか。不肖、張飛もこれに在る。それがしこゝに留まつて死守いたそう。安んじて御出馬ねがひたい」
「いや、其方には恃(たの)み難い」
「なぜで御(ご)座(ざ)るか」
「そちの性は、進んで破るにはよいが、守るには適しない」
「そんな筈は御座らん。張飛のどこが悪いと仰せあるか」
「性来、酒を好み、酔へば、猥(みだり)に士卒を打擲(テウチヤク)し、すべてに軽率である。もつとも悪いのは、さうなると、人の諫めも聞かぬことだ。——其方を留めておいては、玄徳もかへつて心(こころ)懸(がゝ)りでならん。この役は他の者に申しつけよう」
「あいや、家兄。その御意見は胆に銘じ、自分も平素から反省してゐる所でござる。……さうだ、かういふ折こそいゝ時ではある。今度の御出馬を機会として、張飛は断じて酒をやめます。——杯(ハイ)を砕いて禁酒する!」
彼は常に所持してゐる白玉(ハクギヨク)の杯(さかづき)を、一同の見てゐる前で、床に投げつけて打ち砕いた。
その杯は、どこかの戦場で、張飛が分捕つた物である。敵の大将でも落して行つたものか、夜光の名玉を磨いたやうな馬上杯で、
(これ、天より張飛に賜ふところの、一城にも優(まさ)る恩賞なり)
と云つて、常に肌身離さず持つて、酒席とあれば、それを取出して、愛用してゐた。
酒を解さない者には、一箇の器物でしかないが、張飛にとつては、わが子にも等しい愛着であらう。その上に、禁酒の約を誓言したのである。その熾烈な心情に打たれ、玄徳は遂に、かう言つて彼を許した。
「よくぞ申した。そちが自己の非を知つて改めるからには、何で玄徳も患(うれひ)を抱かう。留守の役は、そちに頼む」
「ありがたく存じます。以後はきつと、酒を断ち、士卒を憐(あはれ)み、よく人の諫めに従つて、粗暴なきやうにいたしまする」
情に感じ易い張飛は、玄徳の恩を謝して、心からさう答へた。すると糜竺が
「さうは言ふが、張飛の酒狂(シユキヤウ)は、二つの耳の如く、生れた時から持つてゐる性質、すこし危(あやふ)いものだな」
と、冷やかした。
張飛は、怒つて
「何をいふ。いつ俺が、俺の家兄に、信を裏切つたことがあるか」
と、もう喧嘩腰になりかけた。
玄徳は宥(なだ)めて、留守中は何事も堪忍を旨とせよと訓(をし)へ、又、陳登(チントウ)を軍師として
「万事、よく陳登と談合して事を処するやうに」
と云ひのこし、やがて自身は、三万餘騎を率ゐて、南陽へ攻めて行つた。
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次回 → 禁酒砕杯の約(三)(2024年7月19日(金)18時配信)