第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 両虎(りやうこ)競食(きやうしよく)の計(二)
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呂布は、何も知らない様子であつた。
彼はたゞその日、劉備玄徳に勅使が下つて、正式に徐州の牧(ボク)の印綬(インジユ)を拝したと聞いたので、その祝辞をのべる為(ため)に、玄徳に会ひに来たのである。
で——暫く玄徳とはなしてゐたが、やがて辞して、長い廊を悠然と退がつて来ると
「待てつ。呂布」
と、物陰で待ちかまへてゐた張飛が、その前へ躍り立つて
「一命は貰つたツ」
と、云ふや否(いな)、大剣を抜き払つて、呂布の長躯をも、真二つの勢で斬りつけて来た。
「あつ」
呂布の沓(くつ)は、敷(しき)詰(つめ)てある廊の瓦床(グワシヤウ)を、ぱつと蹴つた。さすがに油断はなかつた。七尺近い大きな体軀も、軽々と、後(うしろ)に跳び交(かは)してゐた。
「貴様は張飛だなつ」
「見たら分らう」
「なんで俺を殺さうとするか」
「世の中の害物を除くのだ」
「どうして、俺が、世のなかの害物か」
「義なく、節なく、離反(リハン)常なく、そのくせ、生(なま)半可(ハンカ)な武力のある奴。——ゆく末、国家のためにならぬから、殺してくれと、家兄玄徳のところへ、曹操から依頼が来てゐる。それでなくても平常から汝はこの張飛から見ると、傲慢不遜で気にくはぬところだ。覚悟をしちまへ」
「ふざけるなつ。貴様ごときに俺が、この首を授けてたまるか」
「あきらめの悪いやつめが」
「待てつ、張飛」
「待たん!」
戞然(カツゼン)と、二度目の剣が、空間に鳴つた。
斬り損ねたのである。
誰か、うしろから張飛の肱(ひぢ)を抑へて、抱き止めた者があつたからである。
「えゝいツ、誰だつ。邪魔するな」
「これつ、鎮(しづ)まらぬかつ。愚者(をろかもの)めが」
「あつ。家兄か」
玄徳は、声を励まして
「誰が、何時、そちに向つて、呂布どのを殺せといひつけたか。呂(リヨ)兄(ケイ)はこの玄徳に取つては、大切な客分である。わが家の客に対して、剣を用ひるのは、玄徳に対して戟を向けるも同じであるぞ」
と、叱りつけた。
「ちえつ。こんな性根の悪い食客を、兄貴は一体、何の弱身があつてさうまで大事がるのか量見(リヤウケン)がわからない」
「だまれ。無礼な」
「誰にですか」
「呂布どのに対して」
「何をつ……。ばかな」
張飛は横へ唾を吐いた。しかし玄徳に対しては、絶対に弟であり目下であるといふことを忘れない彼である。——凝(じつ)と家兄に睨(にら)みつけられると、不平満々ながら、やがて沓(くつ)音(おと)を鳴らして立去つてしまつた。
「おゆるし下さい。……あの通りな駄々つ児(こ)です。まるで子どものやうに単純な漢(をとこ)ですから」
張飛の乱暴を詫び入りながら、玄徳はもう一度、自分の室へ呂布を迎へ直して
「今、張飛が申したことばの中(うち)、曹操から貴君を刺せと密命があつたといふ事だけはほんとです。——が、私にはそんな意志がないし、又、要らざる事を、貴君の耳へ入れてもと考へて、黙殺してゐたわけですが、お耳に入つたからには、明(あきら)かにしておきませう」
と、曹操から来た密書を、呂布に見せて、疑ひを解いた。
呂布も、彼の誠意に感じたと見えて
「いやよく解つた。察するところ、曹操は、あなたと自分との仲を裂かうと謀つたのでせう」
「その通りです」
「呂布を、信じて下さい。誓つて呂布は、不義をしません」
呂布は却(かへ)つて感激して退(さ)がつた。——その様子を、密かに窺(うかゞ)つてゐた曹操の使者は
「失敗だ。これでは、二虎競食の計も何の意味もない」
と、苦々(にが/\)しげに呟いてゐた。
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次回 → 禁酒砕拓(ママ)の約(一)(2024年7月17日(水)18時配信)