第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 両虎(りやうこ)競食(きやうしよく)の計(一)
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荀彧に嗤(わら)はれて、許褚は口をつぐんでしまつた。彼は自分がまだ、智者の間に伍しては、一野人にすぎない事を知つてゐた。
「だめでせうか、私の策は」
「君のいふ事は、策でも何でもない。たゞ、勇気を口に現しただけのものだ。玄徳、呂布などゝいふ敵へ、さういふ浅慮(あさはか)な観察で当るのは危険至極といふものだ」
曹操は、面(おもて)を向け更(か)へて、
「荀彧。——ではそちの考へを聞かうぢやないか。何か名案があるか」
「ない事もありません」
荀彧は、胸を正した。
「今のところ——こゝ暫くは、私は不戦論者です。なぜなら、遷都のあと、宮門その他、容(かたち)はやつと整へましたが、莫大な建築、兵備施設などに、多くを費(つひや)したばかりのところですから」
「む、む……して」
「ですから、玄徳、呂布に対しては、どこまでも外交的な手腕をもつて、彼等を自滅に導くをもつて上策とします」
「それは同感だ。——偽つて彼らと交友を結べといふか」
「そんな常套手段では、むしろ玄徳に利せられる惧(おそ)れがあります。それがしの考へているのは、二虎(ニコ)競食(キヤウシヨク)の計といふ策略です」
「二虎競食の計とは」
「たとへば、こゝに二匹の猛虎が、各々、山月に嘯(うそぶ)いて、風雲を待つてゐると仮定しませう。二虎、共に飢えてゐます。依つて、これに他から香(かん)ばしい餌を投げ与へてごらんなさい。二虎は猛然、本性をあらはして咬(か)みあひませう。必ず一虎は仆(たふ)れ、一虎は勝てりと雖(いへど)も満身(マンシン)痍(きず)だらけになります。——かくて二虎の皮を獲ることは極めて容易となるのではございませんか」
「むゝ。いかにも」
「——で、劉玄徳は、今徐州を領してゐるものゝ、まだ正式に、詔勅をもつてゆるされてはをりません、それを餌(ゑ)として、この際、彼に勅を下し、併(あは)せて、密旨を添へて、呂布を殺せと命じるのです」
「あ。成(なる)程(ほど)」
「それが、玄徳の手に依つて、完全に為されゝば、彼は自分の手で、自分の片腕を断ち切ることになり——万一、失敗して、手を焼けば、呂布は怒つて、必ずあの暴勇をふるひ、玄徳を生かしてはおかないでせう」
「うむ!」
曹操は、大きく頷(うなづ)いたのみで、後の談話はもうその事に触れなかつた。
が、彼の肚(はら)は極(きま)つてゐたのである。それから数日の後には、帝の詔勅を乞うて、勅使が、徐州へ向つて立つた。同時に、その使者が曹操の密書をも併(あは)せて携(たづさ)へて行つたことは想像に難くない。
徐州城に、勅使を迎へた劉玄徳は、勅拝の式がすむと、使者を別室にねぎらつて、自身は静かに、平常の閣へもどつてきた。
「何であらうか?」
玄徳は、使者からそつと渡された曹操の私書を、早速、そこで披(ひら)いて見た。
「……呂布を?」
彼は眼をみはつた。
何度も、繰返し/\読み直してゐると、後ろに立つてゐた張飛、関羽のふたりが、
「何事を曹操から云つてよこしたのですか」と、訊ねた。
「まあ、これを見るがいゝ」
「呂布を殺せといふ密命ですな」
「さうぢや」
「呂布は、兇勇のみで、もと/\義も缺(か)けてゐる人間ですから、曹操のさしづをよい機(しほ)として、この際、殺してしまふがよいでせう」
「いや、彼は恃(たの)む所がなくて、わが懐(ふところ)に投じてきた窮鳥だ。それを殺すは、飼(かひ)禽(どり)を縊(くび)るやうなもの。玄徳こそ、義のない人間といはれよう」
「——が、不義の漢(をとこ)を生かしておけば、ろくな事はしませんぞ。国に及ぼす害は、誰が責(せめ)を負ひますか」
「次第に、義に富む人間となるやうに、温情をもつて導いてゆく」
「さう易々(やす/\)、善人になれるものですか」
張飛は、飽(あく)までも、呂布討つべしと主張したが、玄徳は、従ふ色もなかつた。
すると翌日、その呂布が、小沛から出て来て登城した。
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次回 → 両虎(りやうこ)競食(きやうしよく)の計(三)(2024年7月16日(火)18時配信)