第一回 → 黄巾賊(一)
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徐晃も、絶倫の勇。
許褚もまた「当代の樊噲」とゆるされた万夫不当である。
「好敵手。いで!」
と、槍を舞はして、許褚が挑めば徐晃も、大斧をふるつて、
「願ふところの敵、中途にて背後を見せるな」
と、豪語を放つた。
両雄は、人交(ま)ぜもせず、五十餘合まで戦つた。馬は馬体を濡れ紙のやうに汗でしとゞにしても、ふたりは戦ひ疲れた風もなかつた。
「——いづれが勝つか?」
暫(しば)しが程は、両軍ともに、ひそまり返つて見てしまつた。すばらしい生命力と生命力の相(あひ)搏(う)つ相(サウ)は魔王と獣王の咆哮(ホウカウ)し合ふにも似てゐた。又それはこの世のどんな生物(いきもの)の美しさも語るに足りない壮絶なる「美」でもあつた。
遙(はるか)に、見まもつてゐた曹操は、何思つたか突然、
「鼓手つ、銅鑼(ドラ)を打て」
と、命じた。
口忙しく又、
「退(ひ)き銅鑼だぞ」
と、追ひ足した。
「はつ」
と、鼓手は揃つて、退け——!の銅鑼を打ち鳴らした。
何事が降つて湧ゐたかと、全軍は陣を返し、勿論、許褚も敵を捨てゝ帰つて来た。
曹操は、許褚を初め、幕僚を集めて云つた。
「諸君は不審に思つたらうが、遽(にはか)に銅鑼を鳴らしたのは、実は、徐晃といふ人間を殺すにしのびなくなつたからだ。——われ今日、徐晃を見るに、真に稀世の勇士だ、一方の大将としても立派なものだ。敵とはいへ、可惜(あたら)、あゝいふ英材をこんな無用の会戦に死なせるのは悲しむべきことだ。——わが願ふところは、彼を招いて、味方にしたいのだが、誰か徐晃を説いて、降参させる者はないか」
すると、一名、
「私に仰せつけ下さい」
と、進んでその任に当らうといふ者が現はれた。山陽の人、満寵(マンチヨウ)字(あざな)を伯寧(ハクネイ)といふ者だ。
「満寵か。——よからう。そちに命じる」
曹操はゆるした。
満寵はその夜、ひとり敵地へまぎれ入り、徐晃の陣をそつと窺(うかゞ)つた。
木の間洩る月光の下に、徐晃は甲も解かず、帳を展(の)べて坐つてゐた。
「……誰だつ。それへ来て、窺つてゐる者は」
「はつ……。お久しぶりでした。徐晃どの、おつゝがもなく」
「オヽ。満寵ではないか。——どうしてこれへ来たか」
「旧交を思ひ出して、そゞろお懐かしさの餘りに」
「この陣中、敵味方と分れた以上は、旧友とて」
「あいや。それ故にこそ、特に私が選ばれて、大将曹操から密々にお旨(むね)をうけて忍んで来たわけです」
「えつ、曹操から?」
「けふの会戦に、曹操第一の許褚を向ふに廻して、貴君の目ざましい働き振りを見られ、曹将軍には、心からあなたを惜しんで、遽(にはか)に、退け銅鑼を打たせたものです」
「ああ……さうだつたか」
「なぜ御身ほどな勇士が、楊奉の如き、暗愚な人物を、主と仰いでをられるのか、人生は百年に足らず、汚名は千載を待つも取返しはつきませんぞ。良禽(リヤウキン)は木を選んで棲むといふのに」
「いやいや、自分とても、楊奉の無能は知つてゐるが、主従の宿縁今さら何(ど)うしやうもない」
「ない事はありません」
満寵はすり寄つて、彼の耳に何かさゝやいた。徐晃は、嘆息して
「——曹将軍の英邁はかねて知つてゐるが、さりとて、一日でも主と恃(たの)んだ人を首として、降服して出る気にはなれん」
と、顔を横に振つた。
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次回 → 両虎(りやうこ)競食(きやうしよく)の計(一)(2024年7月13日(土)18時配信)