第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 火星と金星(三)
***************************************
迷信とは思はない。
哲学であり、又、人生科学の追求なのである。尠(すくな)くも、その時代の知識層から庶民に至るまでが、天文の暦数(レキスウ)や易経(エキキヤウ)の五行(ゴギヤウ)説に対しては、さう信じてゐたものである。
——崇高な運命学の定説として彼らの運命観のなかには、星の運行があり、月蝕があり、天変地異があり、易経の暗示があり、又それを普遍する豫言者の声にも自ら多大な関心を払ふ習性があつた。
この渺々(ベウ/\)とした黄土の大陸にあつては、漢室の天子といひ、曹操といひ、袁紹といひ、董卓といひ、呂布といひ、劉玄徳といひ、又孫堅その他の英傑といひ、一面みな弱い儚(はかな)い「我れ」なることを知つてゐた。——広茫無限な大自然の偉力に対して、さしもの英傑豪雄の徒も人間の小ささを、父祖代々生れながらに、知りぬいてゐた。
例へば。
黄河や大江の氾濫にも。
〔いなご〕の飢饉にも。
蒙古からふく黄色い風にも。
大雨、大雪、暴風、そのほかあらゆる自然の力に対しては、どうする術も知らない文化の中の英雄たり豪傑だつた。
だから、その恐れを除いては、彼等は黄土の大陸の上に、人智人力の及ぶかぎりな建設もしたり、又忽ち破壊し去つたり情痴と飽慾(ハウヨク)をし尽したり、自解して腐敗を曝(さら)したり、戦つたり、和したり、歓楽に驕(おご)つたり、惨たる憂目(うきめ)に漂つたり——一律の秩序あるごとく又、まつたく無秩序な自由の野民の如く——実に古い歴史のながれの中に治乱興亡の人間生態図を描いて来てゐるのであるが、さういふ長い経験の下に、自然、根づよく恐れ信じられて来たものは、唯(たゞ)
——人間は運命の下にある。
といふ事だつた。
運命は、人智では分らないが、天は知つてゐる。自然は豫言する。
天文や易理は、それが為に、最高な学問だつた。いや総(すべ)ての学問——たとへば政治、兵法、倫理までが、陰陽の二元と、天文地象の学理を基本としてゐた。
曹操は、謹んで、天子へ奏した。
「——臣、ふかく思ひますに、洛陽の地は、かくの如く廃墟と化し、その復興とて容易ではありません。それに将来、文化の興隆といふ上から観ても、交通運輸に不便で、地象(チシヤウ)悪(あし)く、民心も亦(また)、この土を去つて再びこの土を想ひ慕つてをりません」
曹操は猶(なほ)、ことばを続け、
「それに較べると、河南の許昌は、地味豊饒です。物資は豊富です、民情も荒(すさ)んでゐません。もつといい事には、彼(か)の地には城郭も宮殿も備はつてゐます。——故(ゆゑ)に、都を彼の地へお遷(うつ)しあるやう望みます。——すでに、遷都の儀仗、御車(みくるま)も万端、準備はとゝのつてをりますから」
「…………」
帝はうなづかれたのみである。
群臣は、啞然としたが、誰も異議は云ひたてない。曹操が恐いのである。又、曹操の奏請も、手際がいゝ。
ふたゝび遷都が決行された。
警固、儀伎の大列が、天子を護つて、洛陽を発し、数十里ほど先の丘にかゝつた時であつた。
漠々の人馬一陣、
「待てツ。曹操つ」
「天子を盗んで何処(どこ)へ行く……」
と、呼ばはり、呼ばはり、猛襲して来た。
楊奉、韓暹の兵だつた。中にも楊奉の臣、徐晃は、
「木ツ端(ぱ)武者に、用はない。曹操に見参……」
と、大斧をひつさげて、馬に泡をかませて向つて来た。
「やあ、許褚々々。——あの餌は汝にくれる。討ち取つて来い」
曹操が、身をかはして命じると許褚は、その側から鷲のごとく立つて、徐晃の馬へ自分の馬をぶつけて行つた。
***************************************
[補註]新聞連載版においても、この回より李暹は登場せず、韓暹と記されます。
次回 → 火星と金星(五)(2024年7月12日(金)18時配信)