第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 桑の家(四)
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もちろん劉備が出かけた頃、彼の母も夙く起きてゐた。
母はその間に、竈の下に豆莢(まめ)がらを焚いて、朝の炊(かし)ぎをしておきやがて家の裏のはうへ出て行つた。
桑の大木の下を通つて、裏へ出ると、牛の居ない牛小屋があり、鶏のゐない鶏小屋があり、何もかも荒れ果てゝ、いちめんに秋草がのびてゐる。
だが、そこから百歩ほど歩くと這ふやうな姿をした果樹が、背を並べて、何千坪かいちめん揃つてゐた。それはみんな桃の樹であつた。秋は葉も落ちて淋しいが、春の花のさかりには、この先の蟠桃河が落花で紅くなるほどだつたし桃の実は、市に売りに出して、村の家何軒かで分け合つて、それは一年の生計の重要なものになつた。
「……オオ」
彼女は、ひとりでに出たやうな声を洩らした。桃園の彼方から陽が昇りかけたのだ。金色の日輪は、密雲を嚙み破るやうに、端だけ見えてゐた。今や何か尊いものがこの世に生れかけてゐるやうな感銘を彼女もうけた。
「…………」
彼女は、跪(ひざま)づいて、三礼を施した。子どもの事を禱(いの)つてゐるらしかつた。
それから、箒を持つた。
たくさんな落葉がちらかつてゐる。桃園は村の共有なので、日頃誰も掃除などはしない。彼女も一部を掃いただけであつた。
新しい莚(むしろ)をそこへ敷いた。そして一箇の土炉と茶碗など運んだ。彼女は元々氏素性の賤しくない人の娘であつたし、劉家も元来正しい家柄なので、さういふ品も何処かに何十年も使用せずに蔵(しま)つてあつた。
清掃した桃園に坐つて、彼女は水を汲みに行つた息子が、やがて鶏村から帰るのを、心静かに待つてゐた。
桃園の梢の湖(うみ)を、秋の小禽(ことり)が来てさま[ざま]な音いろを転(まろ)ばした。陽はうら[うら]と雲を越えて、朝霧はまだ紫ばんだまゝ大陸に澱んでゐた。
「わしは倖せ者よ」
彼女は、この一朝の満足をもつて、死んでもいゝやうな気がした。いや[いや]、さうでないとも思ふ。独り強くさう思ふ。
「あの子の将来(ゆくすゑ)を見とゞけねば……」
ふと彼方を見ると
その劉備の姿が近づいて来た。水を汲んで帰つて来たのである。驢に騎(の)つて、驢の鞍に小さい桶を結ひつけて。
「おゝ。おつ母さん」
桃園の小道を縫つて、劉備は間もなくそこへ来た。そして水桶を降ろした。
「鶏村の水は、とてもいゝ水ですね。さだめし、これで茶を煮たらお美味(いし)いでせう」
「ま。御苦労であつたねえ。鶏村の水のことはよく聞いてゐるけれど、彼処はとても恐い谷間だといふぢやないか。後でわたしはそれを心配してゐたよ」
「なあに、道なんかいくら嶮(けは)しくても何でもありませんがね、清水には水番が居まして、なか[なか]ただはくれません。少しばかり金をやつてもらつて来ました」
「黄金の水、洛陽のお茶、それにお前の孝心。王侯の母に生れてもこんないゝ思ひには巡り会へないだらうよ」
「おつ母さん、お茶はどこへ置きましたか」
「さうさう、私だけが戴いてはすまないと思ひ、御先祖のお仏壇へ上げておいたが」
「さうですか、盗まれたらたいへんです。直ぐ取つて参りませう」
劉備は、家のはうへ馳けて、宝珠を抱くやうに、茶壺を捧げて来た。
母は、土炉へ、火をおこしてゐた。その前に跪づいて劉備が茶壺を差出すと、その時、何が母の眼に映つたのであらうか、母は手を出さうともしないで、劉備の身のまはりを改まつた眸でじつと見つめた。
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次回 → 桑の家(六)(2023年9月25日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)