第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 桑の家(三)
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貧しいながら、母子は久しぶりで共にする晩の食事を楽(たのし)んだ。
「おつ母さん、あしたの朝は、きつと歓んで戴けると思ひます。こんどの旅から、私はすばらしいお土産を持つて帰つて来ましたから」
「お土産を」
「ええ。おつ母さんの、大好きな物です」
「ま。何だらうね?」
「生きてゐるうちに、もいちど味(あぢは)つてみたいと、いつか仰有(おつしや)つた事がありましたらう。それですよ」
母を楽ませる為に、劉備も、それが洛陽の銘茶であるといふことを、暫(しばら)く明かさなかつた。
母は、わが子のその気持だけでも、もう眼を細くして歓んでゐるのである。焦(じ)らされてゐると知りながら
「織物かへ」
と訊いた。
「いゝえ。今も云つたとほり、味(あぢは)ふ物ですよ」
「ぢやあ、喰べ物?」
「——に、近いものです」
「何ぢやろ。わからないよ、劉備や。わたしにそんな好物があるかしら」
「望んでも、望めない物と、諦めの中に忘れておしまひになつたんでせう。一生に一度は、とおつ母さんが何年か前かに云つた事があるので、私も、一生に一度はと、おつ母さんにその望みをかなへて上げたいと、今日まで願望に抱いてをりました」
「まあ、そんなに長年、心にかけてかえ? ……猶更(なほさら)、分らなくなつてしまうたよ劉備。……いつたい何だねそれは」
「おつ母さん、実は、これですよ」
錫の小さい茶壺(チヤコ)を取出して、劉備は、卓の上に置いた。
「洛陽の銘茶です。……おつ母さんの大好きなお茶です。……あしたの朝は、うんと早起しませう。そしておつ母さんは、裏の桃園に莚(むしろ)をお敷きなさい。私は驢に乗つて、こゝから四里ほど先の鶏村まで行くと、とてもいゝ清水の湧いてゐる所がありますから、番人に頼んで一桶清水を汲んで来ます」
「…………」
母は眼をまろくしたまゝ錫の小壺を見つめて、物も云へなかつた。やゝ暫くしてから怖い物にでも触るやうに、そつと掌(て)に乗せて、壺の横に貼つてある詩箋のやうな文字などを見てゐた。そして大きな溜息をつきながら、眼を息子の顔へあげて、
「劉備や。……お前、いつたいこれは、何(ど)うしたのだえ」
声まで密(ひそ)めて訊ねるのだつた。
劉備は、母が疑ひの餘り案じてはならないと考へて、自分の気持や、それを手に入れた事など、嚙んでふくめるやうにして話して聞かせた。民間では殆ど手に入れ難い品にはちがひないが、自分が求めたのは、正当な手続きで購(あがな)つたのだから少しも懸念をする必要はありません——とも追(つ)け加へて云つた。
「ああ、お前は! ……なんていふやさしい子だらう」
母は、茶壺を置いて、わが子の劉備に掌をあはせた。
劉備は、あわてゝ、
「おつ母さん、滅相もない。そんな勿体ない真似はよして下さい。ただ歓んでさへ戴ければ」
と、手を取つた。そうして相擁したまゝ、劉備は自分の気もちの酬いられた欣(うれ)しさに泣き、母は子の孝心に感動の餘り涙にくれてゐた。
翌る朝——
まだ夜も白まぬうちに起(おき)て、劉備は驢の背に水桶を結ひつけ、自分も騎(の)つて、鶏村まで水を汲みに行つた。
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次回 → 桑の家(五)(2023年9月23日(土)18時配信)