第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 火星と金星(一)
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戦の結果は、当然、曹操軍の大勝に帰した。
李傕、郭汜の徒は、到底、彼の敵ではなかつた。乱れに乱れ、討たれに討たれ、網を洩れた魚か、家を失つた犬のごとく、茫々と追はれて西の方へ逃げ去つた。
曹操の英名は、同時に、四方へ鳴りひゞいた。
彼は、賊軍退治を終ると、討ち取つた首を辻々に梟(か)けさせ、令を発して民を安め、軍は規律を厳にして、城外に屯剳(トンサツ)した。
「——何の事はない。これぢやあ彼の為にわれ/\は踏台(ふみだい)となつたやうなものではないか」
楊奉は、日に増して曹操の勢いが旺(さかん)になつて来たのを見て、或る折、韓暹に胸の不平をもらした。
韓暹は、今こそ禁門に仕へてゐるが、元来、李楽などゝ共に、緑林(リヨクリン)に党を結んでゐた賊将の上りなので、忽ち性根を現して、
「貴公も、さう思うか」
と、曹操に対して、同じ嫉視の思ひを、口汚く云ひ出した。
「今日まで、帝を御守護して来たおれたちの莫大な忠勤と苦労も、かうして曹操が羽振(はぶり)を利(き)かし出すと、何(ど)うなるか知れたものぢやない。——曹操は必ず、自分たち一族の勲功を第一にして、おれたちの存在などは認めないかも知れぬ」
「いや、認めまいよ」
楊奉は、韓暹に、何やら耳打ちして、顔色を窺(うかゞ)つた。
「ウム……ムヽ。……やらう!」
韓暹は眼をかゞやかした。それから四、五日ほど、何か二人で密密策動してゐたやうだつたが、一夜忽然と、宮門の兵をあらかた誘ひ出して、何処(どこ)かへ移動してしまつた。
宮廷では驚いて、その所在をさがすと、前に逃散した賊兵を追ひかけて行くと称しながら、楊奉、韓暹の二人が引率して大梁(タイリヨウ)(山東省)の方面へさして行つたといふ事がやつと分つた。
「曹操に諮つた上で」
帝は朝官たちの評議に先だつて、ひとりの侍臣を勅使として、彼の陣へ遣はされた。
勅使は、聖旨を体して、曹操の営所へ赴いた。
曹操は、勅使と聞いて、恭(うや/\)しく出迎へ礼を終つて、ふとその人を見ると、何ともいへない気に打たれた。
「…………」
人品の床(ゆか)しさ。
人格の気高い光——にである。
「これは?」
と、彼はその人間を熟視して、恍惚、われを忘れてしまつた。
世相の悪いせゐか、近年は実に人間の品が下落してゐる。連年の飢饉、人心の荒廃など、自然、人々の顔にも反映して、どの顔を見ても、眼は尖(とが)り、耳は薄く、唇は腐色を呈し、皮膚は艶(つやゝ)かでない。
或る者は、豺(サイ)の如く、或る者は魚の骨に人皮を着せた如く、又或る者は鴉(からす)に似てゐる。それが今の人間の顔だつた。
「——然(しか)るに、此人は」
と、曹操は見(み)恍(と)れたのである。
眉目は清秀で、唇(くち)は丹(あか)く、皮膚白皙(ハクセキ)でありながら萎(しな)びた日陰の美しさではない。どこやらに清雅(セイガ)縹渺(ヘウベウ)として、心根のすゞやかなものが香(にほ)ふのである。
「これこそ、佳(い)い人品といふものであらう。久しぶりに人らしい人を見た」
曹操は、心のうちに呟きながら、いとも小憎く思つた。
いや、怖ろしく思つた。
彼のすゞやかな眼光は、自分の胸の底まで見(み)透(とほ)してゐる気がしたからである。——かういふ人間が、自分の味方以外にゐる事は、たとへ敵でなくとも、妨げとなるやうな気がしてならなかつた。
「……時に。御辺は一体、どういふわけで、今日の勅使に選まれてお越しあつたか。御生国は、何処(どこ)でおはすか」
やがて席を更(か)へてから、曹操はそれとなく訊ねてみた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。また李暹が複数回登場しますが、前回、李暹は許褚に斬られています。この回における李暹は、単行本では韓暹に作られており、新聞連載の今後を見ても韓暹であるべきでしょう。
この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については、李確を李傕、郭氾を郭汜、李暹を韓暹に修正しています。
次回 → 火星と金星(三)(2024年7月10日(水)18時配信)