吉川英治『三国志（新聞連載版）』（257）火星と金星（一）

昭和15年（1940）7月9日（火）付掲載（7月8日（月）配達）

第一回　→　黄巾賊（一）

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　曹操は、更（さら）にかう奏上して、帝に誓つた。

「生を国土に享（う）け、生を国恩に報ぜんとは、臣が日頃から抱いてゐた志です。今日、選ばれて、殿階の下に召され、大命を拝受するとは、本望これに越した事はありません。——不肖、旗下の精兵廿万、みな臣の志を体してゐる忠良でありますから、何とぞ、聖慮を安んぜられ、期して、万代泰平の昭日（セウジツ）をお待ちくださいますやうに」

　彼の退出は、万歳々々の声につつまれ、皇居宮院も、久ぶりに明朗になつた。

　——けれど一方、大きな違算に行き当つて、進退に迷つてゐたのは、今は明（あきら）かに賊軍と呼ばれてゐる李傕、郭汜の陣営だつた。

「なに、曹操とて、大した事はあるまい。それに遠路を急ぎに急いで来たので、人馬は疲れてゐるにちがひない」

　二人共、意見はかう一致して、ひどく戦に焦心（あせ）つてゐたが、謀将の賈詡がひとり諫めて承知しないのである。

「いや、彼を甘く見てはいけません。何と云つても曹操は当代では異色ある驍将（ギヤウシヤウ）です。殊（こと）に以前とちがつて、彼の下には近ごろ有数な文官や武将が集まつてゐます。——如（し）かず、逆を捨て、順に従つて、こゝは盔（かぶと）を脱いで降人に出るしかありますまい。もし彼に当つて戦ひなどしたら、餘りにも己を知らな過ぎる者と、後世まで笑ひを遺（のこ）しませう」

　正言（セイゴン）は苦い。

　李傕も、郭汜も、

「降服をすゝめるのか。戦の前に、不吉なことば。あまつさへ、己を知らんなどゝは、慮外な奴」

　斬つてしまへと陣外へ突き出したが、賈詡の同僚が憐れんで懸命に命乞ひをしたので、

「命だけは助けておくが、以後、無礼な口を開くとゆるさんぞ」

　と、幕中に投げこんで謹慎を命じた。——が、賈詡はその夜、幕を嚙み破つて、どこかへ逃亡してそのまゝ行方を晦（くら）ましてしまつた。

　翌朝。——賊軍は両将の意思どほり前進を開始して、曹操の軍勢へひた押しに当つて行つた。

　李傕の甥に、李暹、李別といふ者がある。剛腕をもつて常に誇つてゐる男だ。この二人が駒をならべて、曹操の前衛をまづ蹴ちらした。

「許褚、許褚つ」

　曹操は中軍にあつて、

「行け。見えるか、彼（あ）の敵だぞ」

　と、指さした。

「はつ」

　と、許褚は、飼主の拳を離れた鷹のやうに馬煙りをたてゝ翔け向つた。そして目ざした敵へ寄るかと見るまに、李暹を一刀の下に斬り落し、李別が驚いて逃げ奔るのを、

「待てつ」

　と、うしろから追ひ摑（つか）み、その首をふツつと捻（ね）ぢ切つて静々と駒を返して来るのだつた。

　その剛胆と沈着な姿に、眼のあたりにゐた敵も、彼を追はなかつた。許褚は、曹操の前に二つの首を並べ、

「これでしたか」

　と、庭前の落柿（ラクシ）でも拾つて来たやうな顔をして云つた。

　曹操は、許褚の背を叩いて、

「これだ／＼。そちは正に当世の樊噲（ハンクワイ）だ。樊噲の化身を見るやうだ」

　と、賞（ほ）》め讃（たゝ）へた。

　許褚は、元来、田夫（デンプ）から身を起して間もない人物なので、餘りの晴れがましさに、

「そ、そんなでも、ありません」

　と、顔を赭（あか）くしながら諸将の間へかくれこんだ。

　その容子がをかしかつたか、曹操は、今酣（たけなは）の戦もよそに、

「あはゝゝ。可愛い奴ぢや。ははゝ」

　と、哄笑してゐた。

　さういふ光景を見てゐると、諸将は皆、自分も生涯に一度は、曹操の手で背中を叩かれてみたいといふ気持を起した。

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［補註］新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。

次回　→　火星と金星（二）（2024年7月9日（火）18時配信）