第一回 → 黄巾賊(一)
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勅使が、山東へ降つてから、一ケ月ほど後の事である。
「たいへんですつ」
洛陽の朝臣は、根を震はれた落葉のやうに、仮(かり)普請(ブシン)の宮門を出入りして、みな顔色を失つてゐた。
一騎。
又、一騎。
この日、早馬が引きもきらず、貧しい宮門に着いて、鞍から飛び降りた物見の武士は、転(まろ)ぶが如く、次々に、奥へかくれた。
「董承。如何(いか)にせばよいであらうか」
帝のお顔には、この夏から秋頃の、恐ろしい思ひ出が又、深刻に滲(にじ)み出てゐるのが仰がれた。
李傕と郭汜の二軍が、その後、大軍を調(とゝの)へ、捲土重来して、洛陽へ攻め上つて来るとの急報が伝へられて来たのである。
「曹操へ遣はした使者はまだ帰らず、朕、いづこにか身を隠さん」
と、帝(テイ)は、諸臣に急を諮りながら、呪はれた御運命を、眸のうちに哭(な)いて居られた。
「ぜひもありません」
董承は、頭(かしら)を垂れて、
「——この上は、再び、仮宮をお捨てあつて、曹操が方へ、お落ちになられるが、上策かと思はれますが」
すると、楊奉、韓暹の二人が云つた。
「曹操をお頼りあるも、曹操の心の程はわかりません。彼にも如何(いか)なる野心があるか、知れたものではないでせう。——それよりは、臣等が有る限りの兵をひつさげて、賊を防いでみます」
「お言葉は勇ましいが、門郭(モンクワク)城壁の構へもなく、兵も少(すくな)いのに、何(ど)うして防ぎきれようか」
「侮り給ふな。われ等も武人だ」
「いや、万一、敗れてからでは、間に合はぬ。天子を何処(いづこ)へお移し申すか。暴賊の手に委(まか)すやうな破滅となつたら、それこそ各々の武勇も……」
と、争つてゐる所へ、室の外で、誰か二、三の人々が呶鳴つた。
「何を長々しい御詮議だて、そんな場合ではありませんぞ、もはや敵の先鋒が、あれあのとおり、馬煙(うまけむり)をあげ、鼓(コ)を鳴らして、近づいて来るではありませんかつ」
帝(テイ)は、驚愕して、座を起(た)たれ、皇后の御手を取つて、皇居の裏から御車(みくるま)にかくれた。侍衛の人々、文武の諸官、追ふもあり、残るもあり、一時に、混雑に陥ちてしまつた。
御車は、南へ向つて、あわたゞしく落ちて行かれた。
街道の道の辺(べ)には、飢民が幾人も仆(たふ)れてゐた。
飢ゑた百姓の子や老爺は、枯れ草の根を掘りちらしてゐた。餓鬼のごとく、冬の蟲を見つけて、むしや/\喰つている。腹(はら)膨(ぶく)れの幼児があるかと思ふと、土を舐(な)めながら、どんよりした眼で、
——なぜ生れたのか。
と云ひたげに、此世の空をぼんやり見てゐる女がある。
奔馬や、帝(テイ)の御車や、裸足のままの公卿(クゲ)たちや、戟(ほこ)をかゝへた兵や将や、激流のやうな一陣の砂けむりが、うろたへた喚き声をつゝんで、その前を通つて行つた。
土を舐め、草の根を喰つてゐる、無数の飢ゑたる眼の前を——後から後から通つて行くのであつた。
「アレ。何け?……」
「何ぢやろ?」
無智な飢民の眼には、悲しむべきこの実相も、何の異変とも映らぬものゝやうだつた。
戟の光りを見ても、悍馬(カンバ)の嘶(いなゝ)きを聞いても、その眼や耳は、愕(おどろ)きを失つてゐた。恐怖する知覚さへ喪失してゐる飢民の群れだつた。
——が、軈(やが)て。
李傕、郭汜の大軍が、帝(テイ)の御車を追つて、後方から真つ黒に地を蔽(おほ)つて来ると、どこへ潜(くゞ)つてしまつたものか、もう飢民の影も、鳥一羽も、野には見えなかつた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多いため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 改元(四)(2024年7月5日(金)18時配信)