第一回 → 黄巾賊(一)
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山東の地は遠いが、帝(テイ)が洛陽へ還幸された事は、逸(いち)早く聞えてゐた。
黄河の水は一日に千里を下る。夜の明けるたび、舟行の客は新しい噂を諸地方へ撒(ま)いてゆく。
「目に見えないが大きく動いてゐる。刻々、動いて休まない天体と地上。……あゝ偉大だ、悠久な運行だ。大丈夫たる者、この間に生れて、真に、生き甲斐ある生命を摑(つか)まないで何(ど)うする!おれもあの群星の中の一星であるに」
曹操は天を仰いでゐた。
山東の気温はまだ晩秋だつた。城楼の上、銀河は煙り、星夜の天は美しかつた。
彼も今は往年の白面(ハクメン)慷慨(カウガイ)の一青年ではない。
山東一帯を鎮撫してから、一躍建徳将軍に封ぜられ、費亭侯(ヒテイコウ)の爵に叙せられ、養ふところの兵廿万、帷幕に持つ謀士勇将の数も、今や彼の大志を行ふに不足でなかつた。
「これからだ!」
彼は、自分に云ふ。
「曹操が、曹操の生命を、真に摑むのは、これからだ。——われこの土に生れたり矣。——見よ、これからだぞ」
彼は、今の小成と栄華と、人爵とをもつて、甘んじる男ではなかつた。
その兵は、現状の無事を保守する番兵ではない。攻進を目ざして休(や)まない兵だ。その城は、今の幸福を偸(ぬす)む逸楽の寝床ではない。前進又前進の足場である。彼の抱負は測(はか)り知れないほど大きい。彼の夢は多分に、詩人的な幻想をふくんではゐる。けれど、詩人の意思のごとく弱くない。
「将軍。……そんな所にお在(い)でゝしたか。宴席からお姿が見えなくなつたので、皆どこへ行かれたのかと呟いてゐます」
「やあ、夏侯惇か。いつになく今夜は酔つたので、独り酒を醒(さ)ましに出てゐた」
「まさに、長夜の御宴にふさはしい晩ですな」
「まだ/\歓楽も、おれはこんな事では足らない」
「——が、みな満足してをります」
「小さい人々だ」
そこへ、曹操の弟曹仁が、何か、緊張した眼(まな)ざしをして登つて来た。
「兄上つ」
「なんだ。あわたゞしく」
「たゞ今、県城から早打ちが来ました。洛陽から天子の勅使が下向されるさうです」
「わしへ?」
「元よりです。黄河を上陸(あが)つて旅途をつゞけ、勅使の一行は、明日あたり領内へ着かうとの知らせでした」
「遂に来たか、遂に来たか」
「え。——兄上には、もう分つてゐたんですか」
「分るも分らぬもない。来るべきものが当然に来たのだ」
「はゝあ……?」
「ちやうど今宵はみな宴席にゐるな」
「はい」
「口を嗽(すゝ)ぎ、手を浄(きよ)め、酒面を洗つて、大評議の閣へ集まれと伝へろ。わしも直ぐそれへ臨むであらう」
「はつ」
曹仁は、馳け去つた。
楼台を降つた曹操は、冷泉に嗽(うが)ひし、衣服を更(か)へ、帯剣を鏘々(シヤウ/\)と鳴らしながら、石廊を大歩して行つた。
閣の大広間には、すでに群臣が集まつてゐた。たつた今まで酒席に躁(はしや)いでゐた諸将も、一瞬に、姿勢を正し、烱々(ケイ/\)と眸をそろへながら、大将曹操の姿を迎へた。
「荀彧」
曹操は、指名して云つた。
「きのふ、そちが予に向つて吐いた意見を、その儘(まゝ)、この席で述べろ。——勅使はすでに山東に下られてゐる。曹操の肚はもう極(きま)つているが、一応荀彧から大義を明らかに述べさせる。荀彧、立て」
「はつ」
荀彧は起立して、今、天子を扶(たす)くる者は、英雄の大徳であり、天下の人心を収める大略であるといふ意見を、理論立てゝ滔々(タフ/\)と演説した。
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[補註]新聞連載版では荀彧を荀惑に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多いため、荀惑を荀彧に修正しています。
次回 → 改元(三)(2024年7月4日(木)18時配信)