第一回 → 黄巾賊(一)
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幾(いく)度(たび)か、虎口を遁(のが)れ、百難をこえて、帝(テイ)は、漸く洛陽の旧都へ還られた。
「——噫(あゝ)。これが洛陽だつたらうか?」
帝(テイ)は、憮然として、そこに立たれた。
侍衛の百官も、
「変れば変るもの」
と、涙を催さぬ者はなかつた。
洛陽千万戸、紫瑠璃(シルリ)黄玉(クワウギヨク)の城楼宮門の址(あと)も今は何処(いづこ)?
見わたす限り草茫々の野原に過ぎなかつた。石あれば楼台の址、水あれば朱欄(シユラン)の橋や水亭の玉池(ギヨクチ)があつた蹟(あと)である。
官衙(クワンガ)も民家も、総(すべ)て、焼け石と材木を草の中に餘してゐるだけだつた。秋も暮れて、もう冬に近いこの蕭々(せう/\)たる廃都には、鶏犬の声さへしなかつた。
でも、帝には、
「こゝらが、温徳殿(ウントクデン)の址ではないか。この辺(あたり)か、商金門の蹟……」
と、なつかしげに禁門(キンモン)省垣(セイヱン)の面影を偲びながら、半日も彷徨(さまよ)ひ歩かれた。
それにつけても、董卓がこの都を捨てゝ、長安へ遷都を強(し)ひたあの時の乱暴さと、凄(すさま)じい兵乱の火が、帝のお胸に、悔恨となつてひしと思ひ起された。
然(しか)し、その董卓も、当時の暴臣共も、多くは、すでに異郷で白骨になつてゐる。——たゞ今猶(なほ)、董卓の遺臣の郭汜、李傕のふたりが飽(あく)まで、漢室の癌(ガン)となつて、帝に禍(わざはひ)してゐた。
漢室と董卓とは、思へば、よほどの悪因縁に見える。
「人は住んでゐないのであらうか」
帝は、餘りの淋しさに、扈従(コジウ)の人人を顧みて問はれた。
「以前の城門街あたりに、見すぼらしい茅屋(あばらや)が、数百戸あるやうです。——それも連年の飢饉や疫病のために、辛くも暮してゐる民ばかりのやうです」
侍臣は、さうお答へした。
その後、公卿たちは、戸帳を作り、住民の数を詮議し、同時に年号も、
建安(ケンアン)元年、
と、改元した。
何にしても、皇居の仮普請が急がれたが、さういふ状態なので、土木を起すにも人力はなし、又、朝廷に財もないので、極めて粗末なたゞ雨露を凌(しの)ぎ、政事を執るに足るだけの仮御所がそこに建てられた。
ところが。
仮御所は建つても、供御(クゴ)の穀物もなければ、百官の食糧もない。
尚書郎(シヨウシヨラウ)以下の者は、みな跣足(はだし)となり、廃園の瓦を起して、畑を耕し、樹の皮をはいで餅とし、草の根を煮て汁としたりして、その日その日の生計に働いた。
又、それ以上の役人でも、どうせ朝廟の政務といつても、さし当つて何もないので、暇があれば、山に入つて木の実を採り、鳥獣を猟(あさ)り、薪や柴を伐(き)り蒐(あつ)めて来て、辛くも、帝の御供を調(とゝの)へた。
「あさましい世を見るものであります。けれど、いつ迄(まで)かうしてゐても、自(ひとり)でに、忠臣が顕(あらは)れ、万戸が建ち並んで、昔日(セキジツ)の洛陽に回(かへ)らうとも思はれません。——何とか御思案なければなりますまい」
或る時、太尉楊彪から、それとなく帝(テイ)に奏上した。
元より、帝(テイ)にも、
「よい策だにあれば」
といふ思(おぼし)召(めし)であるから、楊彪に、如何(いか)にせばよいかと、御下問あると、楊彪はこゝに一策ありと次のやうな意見をのべた。
「今。山東の曹操は、良将謀士を麾下(キカ)に集めて、蓄ふところの兵数十万といはれてゐます。唯(たゞ)、彼に今無いものは、その旗幟(キシ)の上に唱へる大義の名分のみです。——今もし、天子、勅を下し給うて、社稷(シヤシヨク)の守りをお命じあれば、曹操は風を望んで参りませう」
帝(テイ)は、楊彪の意見を、許容なされた。そこで間もなく、勅使は洛陽を立つて、山東へ急ぎ下つた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 改元(二)(2024年7月3日(水)18時配信)