第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 緑林(りよくりん)の宮(みや)(三)
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流民に等しい帝の漂泊は、猶(なほ)幾日もつゞいた。
後からぼつ/\追ひついて来た味方はあるが、それは殆(ほとん)ど野卑(ヤヒ)獰猛(ダウモウ)な李楽の手下ばかりだつた。
だから李楽だけは一行の中でも二百餘人の手下を持ち、誰よりも一番威張り出した。
太尉楊彪は、
「ひと先(ま)づ、安邑(アンユウ)県(山西省・函谷関の西方)へおいであつて、暫(しば)し仮の皇居をお構へ遊ばし、玉体を保たせられては如何(いかゞ)ですか」
と、帝へすゝめた。
「よいやうに」
帝はもう総(すべ)てを観念なされて居るかのやうに見えた。
「さらば——」
と、牛車の龍駕(リウガ)は安邑まで急いだ。然(しか)しこゝとて仮御所にふさはしいやうな家などはない。
「一時、こゝにでも」
と、人々が見つけた所は、土塀らしい址(あと)はあるが、門戸もなく、荒草(クワウサウ)離々(リヽ)と生ひ茂つた中に、朽ち傾いた茅屋(あばらや)があるに過ぎなかつた。
「まことに、これは朕が今住む所にふさはしい。見よ、四方は荊棘(いばら)のみだ。荊棘の獄よ」
と、帝は皇后に云はれた。
けれど、どんな廃屋でも、御所となれば、こゝは即座に禁裏(キンリ)であり禁門である。
緑林の親分李楽も、帝に従つてから、征北将軍といふ厳(いか)めしい肩書を賜はつてゐたので、長安や洛陽の宮城を知らない彼は、こゝにゐても、結構いゝ気持になれた。
その増長が募つて、近頃は、側臣からする上奏を待たずに、づかづか玉座へやつて来て
「陛下。あつしの乾分(こぶん)共も、あゝやつて、陛下の為に苦労して来た奴らですから、ひとつ官職を与へてやつておくんなさい。——御史(ギヨシ)とか、校尉とか、何とか、肩書をひとつ」
と、強請(ゆす)つたりした。
餘りの浅ましさに、侍臣たちが遮ると、李楽は猶(なほ)さら地(ぢ)を露(あら)はして、
「黙ツてろ、汝(てめえ)たち!」
と、朝官の横顔を撲(は)り仆(たふ)した。
それ位はまだ優しい方で、ひどく疳癪(カンシヤク)を起した時は、帝(テイ)の側臣を蹴とばしたり、耳をつかんで屋外へ抛(はふ)り出したりした。
帝(テイ)には、それを御存じなので、李楽の云ふ儘(まゝ)に、何事も頷いてをられた。けれど、官職を下賜されるには、玉璽(ギヨクジ)がなければならない。筆墨や料紙は何とか備へてあるが、玉璽は今、お手(て)許(もと)にない。——故(ゆゑ)に、
「しばし待て」
と、仰せられると李楽は、そんな故実など認めない。玉璽といふのは、帝(テイ)の御印章であらう、それならこゝでお手づから彫らばすぐ間に合ふではないかと無茶なことを云ふ。
「荊棘(いばら)の木を切つて来よ」
帝(テイ)は、求められて、それを印材とし、彫刀もないので、錐をもつて、手づから印をお彫りになつた。
李楽は、大得意だつた。
乾分(こぶん)たちの屯(たむろ)してゐる中へ来て手柄顔に、理(わけ)を話し
「さあ、汝(てめえ)には、御史をくれてやる。汝(わ)れは、校尉つてえ官職に就(つ)かせてやらう。猶々(なほ/\)、おれの為に、働けよ。——今夜はひとつ祝へ。何、酒がねえと。どこか村へ行つて探して来い。たいがい床下を剝がしてみると、一瓶や二瓶は出てくるものだ」
醜態暴状、見てはゐられない。
ところへ、河東の太守王邑(ワウユウ)から、些細な食物(くひもの)と衣服が届けられた。——帝と皇后は、その施しで、漸く、飢ゑと寒さから救はれた。
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次回 → 緑林(りよくりん)の宮(みや)(五)(2024年7月1日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。