第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 緑林(りよくりん)の宮(みや)(二)
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こゝまで帝に侍(つ?)いて来た宮人等も、あらかた舟に乗り遅れて殺されたり、又舷(ふなべり)に取り縋(すが)つた者も、情(なさけ)用捨(ヨウシヤ)なく突き離されて、黄河の藻屑となつてしまつた。
帝は滂沱の御涙を頰にながして
「あな、傷(いた)まし。朕、ふたゝび祖廟に上る日には、必ず汝等の霊をも祭るであらう」
と、叫ばれた。
餘りの酷(むご)たらしさに、皇后は顔色もなくお在(は)したが、舟がすゝむにつれ、風浪も烈しく、愈々(いよ/\)生ける心地もなかつた。
漸く、対岸に着いた時は、帝の御衣もびツしより濡れてゐた。皇后は舟に暈(よ)はれたのか、身うごきも為(な)さらない。伏徳が背に負ひ蒔(まゐ)らせてとぼ/\歩きだした。
秋風は冷々と蘆荻(ロテキ)に鳴る。曇天なので、人々の衣は、いとゞ乾かず、誰の唇も紫色してゐた。
それに、御車は捨てゝもう無いので、帝は裸足のまゝお歩きになるしかなかつた。馴れないお徒歩(ひろひ)なので、忽ち足の皮膚はやぶれて血を滲(にじ)ませ、見るだに傷々(いた/\)しいお姿である。
「もう少しの御辛抱です。……もう暫く行けば部落があるかと思はれますから」
楊奉は、お手を扶けながら、頻(しき)りと帝を励ましてゐたが、そのうちに後(うしろ)にゐた李楽が、
「あつ、いけねえ!対(むか)ふ岸の敵の奴等も漁船を引つぱりだして乗りこんで来るつ。ぐづ/\してゐると追ひつかれるぞ」
と、例に依つて、野卑なことばで急(せ)き立てた。
楊奉は帝の側を去つて
「あれに一軒、土民の家が見えました。暫く、これにてお待ちください」
と、馳けて行つた。
間もなく、彼は、彼方の農家から一輛の牛車を引つ張つて来た。
元より耕農に使ふひどいガタ車であつたが、莚(むしろ)を敷いて、帝と皇后の御座(みくら)を設(しつら)へ、それにお乗せして、
「さあ、急がう」
と、楊奉が手綱を曳いた。
李楽は、細竹をひろつて、
「馳けろつ、馳けろつ」
と、牛の尻を打ちつゞけた。
車上の御座は、大浪(おほなみ)の上にあるやうにグワラ/\揺れた。——灯ともる頃、漸く、大陽といふ部落まで辿りついて、農家の小屋を借り、帝(テイ)の御駐輦所(ゴチウレンジヨ)とした。
「貴人がお泊りなさつた」
と、部落の百姓たちは囁(さゝや)きあつたが、まさかそれが、漢朝の天子であらうとは知るわけもなかつた。
そのうちに、一人の老媼(ラウオウ)が、
「貴人にあげて下さい」
と、粟飯(あはめし)を炊いて来た。
楊奉の手から、それを献じると帝も皇后も、飢ゑ渇いてをられた所なので、すぐお口にされたが、どうしても喉(のど)を下らない御容子だつた。
夜が明けると、
「やあ、これにお在(い)でになつたか」
と、乱軍の中で迷(はぐ)れた太尉楊彪と太僕(タイボク)韓融(カンユウ)の二人が、若干の人数をつれて探し当てゝ来た。
「では昨日、後から漁船に乗つて黄河を渡つて来たのは、貴公だつたのか」
と、楊奉を初め、扈従(コジウ)の人々も歓びあひ、わけて帝(テイ)には、この際一人の味方でも心強く思はれるので、
「よくぞ無事で」
と、又しても御涙であつた。
それにしても、こゝはいつ迄(まで)居る所ではない、少しも先へと、扈従の人々は、又牛車の上の素莚(すむしろ)へ、帝(テイ)と皇后をお乗せして部落を立つた。
すると途中で、太僕韓融は、
「成功するや否やわかりませんが郭汜も李傕も手前を信用してゐます。この旧縁を力に、これから後へ戻つて、彼等に兵を収めるやうに、一つ生命がけで、勧告してみませう——彼等とて、肯(うなづ)かない事もないかと思はれますから」
と、人々へ告げて、一人道を引つ返して行つた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 緑林(りよくりん)の宮(みや)(四)(2024年6月29日(土)18時配信)