第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 緑林(りよくりん)の宮(みや)(一)
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陝西の北部といえば、まだ未開の苗(ベウ)族さへ住んでゐる。人文に遠い僻地(ヘキチ)である事は云ふまでもない。
目的の為に狎(な)れ合つた郭と李の聯合勢が、どこまでも執拗に追撃して来るので、帝の御車は道を更(か)へて、遂にそんな地方へ逃げ隠れてしまはれた。
「この上はやむを得ません。白波帥(ハクハスヰ)の一党へ、聖旨を降して、お招きなさいませ。彼等を以(もつ)て、郭汜、李傕の徒を追ひ退けるのが、残されてゐるたつた一つの策かと思はれます」
と、帝の周囲は、帝にすゝめ参らせた。
白波帥とは、何者の党か。
帝には、御存じもない。
云はるゝまゝ詔書を発せられた。
いかに乱世でも、思ひがけない事が降つて来るもの哉(かな)——と、それを受けた白波帥の頭目共は驚いたにちがひない。
彼等は、太古の山林に住み、旅人や良民の肉を喰らひ血に嘯(うそぶ)いて生きてゐる緑林の徒——いはゆる山賊強盗を渡世とした輩だつたからである。
「おい。出向いてみようか」
「ほんとかい。天子の詔書が、俺たちを呼びに来るなんて」
「噓ぢやあるめえ。何でも、長安の〔どさくさ〕から、逃げ惑つておいでなさるつてえ噂は〔ちらほら〕聞えてゐる」
「一党を率ゐて、出向いたところを一網に御用つてな陥(おと)し穽(あな)ぢやあるめえな」
「先にそんな軍勢がゐるものか。いつまで俺たちも、虎や狼の親分で居ても仕方がねえ。一足跳びの立身出世は今この時だ。手下を率(ひ)き連れて出かけよう」
李楽(リガク)、韓暹(カンセン)、胡才(コサイ)の三親分は、評議一決して、山林の豺狼(サイラウ)千餘人を糾合し
「おれたちは、今日から官軍になるんだ。ちつとばかり、行儀を良くしなくツちやいけねえぞ」
と、訓令して、馳せつけた。
味方を得て、御車はふたゝび、弘農をさして急いだ。途上、忽(たちま)ち郭と李の聯合勢とぶつかつた。
彼等の軍にも、土匪山賊が交(まじ)つてゐる。猛獣と猛獣の咬(か)みあひだ。その惨たる事は、太陽も血に黒く霞むばかりだつた。
「敵兵は、あらかた緑林の仲間だな」
さう気がつくと、郭汜は先頃自分の兵が御車の上や扈従(コジウ)の宮人たちの手から、撒き捨てられた財物に、気を奪はれた事を思ひ出して、その折、兵から没収して一輛の車に積んでゐた財物や金銀を戦場へ向つて撒きちらした。
果(はた)して、李楽等の手下は、戦を熄(や)めて、それをあばき合つた。
為に、せつかくの官軍も、何の役にも立たなくなつたばかりか、胡才、韓暹の両親分は討死してしまひ、李楽も御車を追つて、生命から/゛\逃げ出した。
帝の御車は、ひた急ぎに、黄河の岸まで落ちて来られた。——李楽は断崖を下りて、漸(やうや)く一艘の舟を捜し出したが、岸壁は屛風のやうな嶮(けは)しさで、帝は下を覗(のぞ)かれただけで、絶望の声を放たれ、皇后には、〔よゝ〕と哭(な)き惑はれるばかりだつた。
楊奉、楊彪らの侍臣も
「どうしたものか」
と、思案に暮れたが、敵は早くも間近まで追ひ詰めて来た様子——しかも前後に見える味方はもう極めて僅(わづか)だつた。
皇后の兄にあたる伏徳(フクトク)といふ人が、数十匹の絹を車から下ろして、天子と皇后の御体をつゝんでしまひ、絶壁の上から縄で吊り下ろした。
漸(やうや)く、小舟に乗つたのは、帝と皇后の他わづか十数人に過ぎなかつた。それ以外の兵や、遅れた宮人たちも、黄河の水に跳びこんで、共に逃げ渡らうと、水中から舷(ふなべり)へ幾人もの手が必死にしがみついたが
「駄目だ、駄目だ。さう乗つちやあ、俺たちが助からねえ」
と、李楽は剣を抜いて、その指や手頸(てくび)をバラ/\斬り離した。為に、舷を搏(う)つしぶきも赤かつた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 緑林(りよくりん)の宮(みや)(三)(2024年6月28日(金)18時配信)