第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 毒と毒(五)
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折も折である。
帝は、容色(かほいろ)を変えて、
「何事か?」
と、左右を顧みられた。
「見て参りませう」
侍臣の一人があわてゝ出て行つた。そして、すぐ帰つて来ると、
「たいへんです。郭汜の軍勢が城門に押しよせ、帝の玉体を渡せと、喊(とき)のこゑをあげ、鼓(つゞみ)を鳴らして、犇(ひし)めいてをりまする」と、奉答した。
帝は、喪心せんばかり驚いて、
「前門には虎、後門には狼。両賊は朕の身を賭物(かけもの)として、爪牙(サウガ)を研(と)ぎあつてゐる。出づるも修羅、止まるも地獄、朕は抑(そも/\)、いづこに身を置いていゝのか」
と、慟哭された。
侍中郎の楊琦(ヤウキ)は、共に涙をふきながら、帝を慰め奉つた。
「李傕は、元来が辺土の夷(えびす)そだちで最前のやうに、礼を辨(わきま)へず、言語も粗野な漢(をとこ)ですが、あの後で、心に悔いる色が見えないでもありませんでした。そのうちに、不忠の罪を慚(は)ぢて、玉座の安泰をはかりませう。ともあれ、こゝは静かに、成行(なりゆき)を御覧あそばしませ」
そのうちに、城門外では、一(ひ)と合戦終つたか、矢叫びや喊声(カンセイ)が熄(や)んだと思ふと、寄手の内から一人の大将が、馬を乗出して、大音声にどなつてゐた。
「逆賊李傕に云ふ。——天子は天下の天子なり、何故なれば、私に、帝をおびやかし奉り、玉座を勝手にこれへ遷(うつ)しまゐらせたか。——郭汜、万民に代つて汝の罪を問ふ、返答やあるつ!」
すると、城内の陰から李傕、颯颯(サツ/\)と駒をすゝめて、
「笑ふべき〔たは〕言(ごと)かな。汝ら乱賊の難を避けて帝(テイ)御(おん)自(みづか)らこれへ龍駕を奔らせ給ふに依つて、李傕、御座を守護してこれにあるのだ。——汝ら猶(なほ)、龍駕を趁(お)うて天子に弓をひくかつ」
「だまれつ。守護し奉るに非ず、天子を押こめ奉る大逆。かくれないことだ。速(すみや)かに、帝の御身を渡さぬに於ては、立ちどころに、その素首を百尺の宙へ刎ねとばすぞ」
「何をつ、小ざかしい」
「帝を渡すか、生命を捨てるか」
「問答無用つ」
李傕は、槍を振つて、りう/\と突つかけてきた。
郭汜は、大剣をふりかざし、おのれと、唇をかみ、眦(まなじり)を裂いた。双方の駒は泡を嚙んで、嘶(いなゝ)き立ち、一上一下、剣閃(ケンセン)槍光(サウクワウ)のはためく下に、駒の八蹄は砂塵を蹴上げ、鞍上の人は雷喝を発し、勝負は容易につきさうもなかつた。
「待ち給へ。両将、暫く待ち給へ!」
ところへ。
城中から馳せ出して、双方を引分けた者は、つい今し方、帝のお傍(そば)から見えなくなつてゐた太尉楊彪だつた。
楊彪は、身を挺してふたりに向つて、懸河(ケンガ)の辯をふるひ、
「ひとまづ、こゝは戦を休(や)めて、双方、一応陣を退(ひ)きなさい。帝の御命でござる、御命に背(そむ)く者こそ、逆賊と云はれても申し訳あるまい」
と云つた。
その一言に、双方、兵を収めて遂に引(ひき)退(の)いた。
楊彪は、翌日、朝廷の大臣以下、諸官の群臣六十餘名を誘つて、郭汜の陣中に赴いた。そして一日もはやく李傕と和睦してはどうかとすゝめてみた。
誰もまだ気づかないが、もともとこの戦乱の火元は楊彪なのである。ちと薬が効きすぎたと彼も慌て出したのだらうか。それともわざと仲裁役を買つて殊(こと)更(さら)、仮面の上に仮面を被(かむ)つて来たのだらうか。彼も亦(また)複雑な人間の一人ではある。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 巫女(みこ)(一)(2024年6月21日(金)18時配信)