第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 毒と毒(四)
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「李司馬の甥が、天子を御輦(みくるま)にのせて、何処(どこ)かへ誘拐(かどはか)して行きます」
部下の急報を聞いて、郭汜は非常に狼狽した。
「あゝ、抜かつた。天子を奪はれては、一大事だ。それつ、遣(や)るな!」
遽(にはか)に、後宰門外へ、兵を走らせたが、もう間にあはなかつた。
奔馬と狂兵に索(ひ)かれてゆく龍車は、黄塵をあげて、郿塢街道の方へ急いでゐた。
「あれだ/\」
郭汜の兵は、騒ぎながら、ワラワラと追矢を射かけた。併(しか)し、敵の殿軍(しんがり)に射返されて、却つて夥(おびたゞ)しい負傷者を求めてしまつた。
「出(だし)抜(ぬ)かれたか。くそ忌々(いま/\)しい事ではある」
郭汜は、自分の不覚の鬱憤ばらしに兵を率ゐて、禁闕(キンケツ)へ侵入し、日頃気にくはない朝臣を斬(きり)殺(ころ)したり、又、後宮の美姫や女官を捕虜として、自分の陣地へ引つ立てた。
そればかりか、すでに帝も在(を)はさず、政事(まつりごと)もそこには無い宮殿へ、無用な火を放つて、
「この上は、飽(あく)まで戦ふぞ」
と、その炎を見て、徒(いたづ)らに快哉をさけんだ。
一方——
帝と皇后の御輦(みくるま)は、李暹のために、李司馬の軍営へと、遮二無二、曳きこまれて来たが、そこへお置きするのはさすがに不安なので李傕、李暹の叔父甥は、相談のうへ、以前、董相国の別荘であり又、堅城でもある郿塢の城内へ、遷(うつ)し奉ることゝした。
以来、献帝並(ならび)に皇后は、郿塢城の幽室に監禁されたまゝ、十数日を過してをられた。帝の御意志は元よりのこと、一歩の自由もゆるされなかつた。
供御(クゴ)の食物なども、実にひどいもので、膳が来れば、必ず腐臭が伴つてゐた。
帝は、箸をお取りにならない。侍臣たちは、強(し)ひて口へ入れてみたが、みな嘔吐を怺(こら)へながら、唯(たゞ)、涙を泛(うか)べ合ふだけだつた。
「侍従どもが、餓鬼のごとく痩せてゆくのは、見てゐる身が辛(つら)い。願はくば、朕へ徳を施す心をもて、彼等に愍(あは)れみを与へよ」
献帝は、さう仰つしやつて、李司馬の許(もと)へ使(つかひ)を立て、一嚢(ナウ)の米と、一股(コ)の牛肉とを要求された。
すると、李傕がやつて来て、
「今は、闕下(ケツカ)に大乱の起つてゐる非常時だ。朝夕の供御は、兵卒から上げてあるのに、この上、何を贅沢な御託をならべるのかつ」
と、帝へ向つて、臣下にあるまじき悪口(アクコウ)を吐(ほ)ざいた。そして、何か傍らから云つた侍従をも撲(なぐ)りつけて立ち去つたが、さすがに後では、少し寝ざめが悪かつたものとみえ、その日の夕餉(ゆうげ)には若干の米と、腐つた牛肉の幾片かゞ皿に盛られてあつた。
「噫(あゝ)。これが彼の良心か」
侍従たちは、その腐つた物の臭気に面を反(そむ)けた。
帝は、いたく憤られて、
「豎子(ジユシ)、かくも朕を、ないがしろに振舞ふか」
と、袞龍(コンリウ)の袖をお眼にあてたまま身をふるはせてお嘆きになつた。
侍臣のうちに、楊彪もひかへてゐた。——
彼は、断腸の思ひがした。
自分の妻に、反間の計をふくめて、今日の乱を作つた者は、誰でもない楊彪である。
計略図にあたつて、郭汜と李傕とが互(たがひ)に猜疑(サイギ)しあつて、血みどろな角逐(カクチク)を演じ出したのは、将(まさ)に、彼の思ふ〔つぼ〕であつたが、帝と皇后の御身に、こんな辛酸が下らうとは、夢にも思はなかつたところである。
「陛下。おゆるし下さい。そして李傕の残忍を、もう暫(しばら)く、お忍び下さい。そのうちに、きつと……」
云ひかけた時、幽室の外を、どやどやと兵の馳ける跫音(あしおと)が流れて行つた。そして城内一度に、何事か、わあつと鬨(とき)の声に揺れかへつた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 毒と毒(六)(2024年6月20日(木)18時配信)