第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 毒と毒(三)
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「おゝ!怖ろしい」
郭夫人は、良人にしがみつきながら、大仰に、身を慄(ふる)はせて云つた。
「ごらんなさい。妾(わたし)が云はないことではないでせう。この通り、李司馬から届けてよこした料理には毒が入つてゐるではありませんか。人の心だつて、これと同じやうなものです」
「ウむむ……」
と、郭汜も唸(うめ)いたきり、目前の事実に、たゞ茫然としてゐた。
こんな事もあつてから、郭汜の心には、漸(やうや)く李傕に対しての疑ひが、芽を伸ばしてゐた。
「はてな、彼(あ)の漢(をとこ)?」
と、視る眼も、前とちがつて、事々に歪んで視るやうになつた。
それから一ケ月ほど後、朝廷から退出して帰ろうとする折を、李傕に強(た)つて誘はれて、郭汜はぜひなく彼の邸へ立ち寄つた。
「けふは、少し心祝ひのある日だから、充分に飲んでくれ給へ」
例に依つて、李司馬は、豪奢な食卓に、美姫を侍(はべ)らせて、彼をもてなした。
郭汜は〔つい〕帯紐(おびひも)解いて、泥酔して家に帰つた。
だが、帰る途中で、彼はすこし酔がさめかけた。——と云ふのは生酔(なまよひ)本性(ホンシヤウ)にたがはずで、何かの弾みにふと、神経を起して、
「まさか、今夜の馳走には、毒は入つてゐなかつたろうな?」
と、いつぞや毒に中(あ)たつて死んだ犬の断末の啼き声を思ひ出して来たからであつた。
「……大丈夫かしら?」
さう神経が手伝ひ出すと、何とはなく胸が〔むか〕ついて来た。急に鳩尾(みぞをち)の辺(あたり)へそれが衝(つ)きあげてくる。
「あ。これはいかん」
彼は、額の汗を指で撫でた。そして車の者に
「急げ、急げ」
と、命じた。
邸へ戻るなり、彼は、あわてゝ妻を呼び
「何か、毒を解(け)す薬はないか」
と、牀(シヤウ)へ仰向けに仆(たふ)れながら云つた。
夫人は、理(わけ)を聞くと、この時とばかり、薬の代りに糞汁(フンジウ)を服(の)ませて、良人の背をなでゝゐた。さらぬだに、神経を起してゐた郭汜はあわてゝ異様なものを嚥(の)み下したので、とたんに、牀の下へ、腹中のものをみな吐き出してしまつた。
「オヽ。いゝ塩梅(アンバイ)に、すぐ薬が効きました。これでさつぱりしたでせう」
「ああ、苦しかつた」
「もうお生命(いのち)は大丈夫です」
「……ひどい目に遭(あ)つた」
「あなたもあなたです。いくら妾(わたし)が御注意しても、李司馬を信じきつてゐるから、こんな事になるんです」
「もう分つた。われながら、おれは餘り愚直すぎた。よろしい、李司馬がその気なら、おれにも俺の考へがある」
蒼白になつた額を、自分の拳で、二つ三つ叩いてゐたが、やにはに室を躍り出したと思ふと、郭汜は、その夜のうちに、兵を集め、李司馬の邸へ夜討をかけた。
李傕の方にも、逸(いち)はやく、その事を知らせた者があるので
「さては、此(この)方(はう)を除いて、おのれ一人、権を握らんとする所存だな。いざ来い、その儀ならば」
と、既に彼の方にも、充分な備へがあつたので、両軍、巷(ちまた)を挟んで、翌日もその翌日も、修羅の巷を作つて、血みどろな戦闘を繰返すばかりだつた。
一日毎(ごと)に、両軍の兵は殖え、長安の城下にふたゝび大乱状態が起つた。——その混乱の中に、李司馬の甥の李暹(リセン)といふ男は
「さうだ。……天子をこつちへ」
と、気づいて、逸(いち)はやく龍坐(リウザ)へ迫つて、天子と皇后を無理無態に輦(くるま)へうつし、謀臣の賈詡、武将左霊(サレイ)のふたりを監視につけ、泣きさけび、追い慕ふ内侍や宮内官などに眼もくれず、後宰門(コウサイモン)から乱箭(ランセン)の巷へと、ぐわら/\曳き出して行つた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 毒と毒(五)(2024年6月19日(水)18時配信)