第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 毒と毒(二)
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楊彪の妻は、わざと、同情にたへない顔をして見せながら、
「ほんとに御夫人は、何も御存じないんですか」
と、空(そら)怖(おそろ)しい事でも語るやうに声をひそめた。
郭汜の夫人は、もう彼女の唇の罠(わな)に懸かつてゐた。
「何も知りません。……何かあの、宅の主人に関はることではありませんか」
「え、さうなんですの……、奥さま。どうか貴女(あなた)のお胸にだけ畳んでおいて下さいませ。あの、お綺麗なんで有名な李司馬のお若い奥様を御存じでいらつしやいましよ」
「李傕様と良人(たく)とは、刎頸(フンケイ)の友ですから、私も、あの夫人とは親しくしておりますが」
「だから御夫人は、ほんとにお人が好(よ)すぎるつて、世間でも口惜しがるんでございませうね。あの李夫人と、お宅の郭将軍とは、もう疾(と)うからあの……迚(とて)も……何なんですつて」
「えつ。主人と、李夫人が?」
郭汜の妻は、さつと、顔いろを変へて、
「ほ、ほんとですか」
と、顫(わなゝ)いた。
楊彪の妻は、
「奥さま。男つて、みんなさうなんですから、決して、御主人をお怨みなさらないがようございますよ。たゞ私は、李夫人が、憎らしうございますわ。貴女といふ者があるのを知つてゐながら、何ていふお方だらうと思つて——」
と、摺(す)り寄つて、抱かないばかりに慰めると、郭夫人は、
「道理でこの頃、良人(たく)の容子が変だと思ひました。夜もたび/\遅く帰るし、私には、不機嫌ですし……」
と、さめ/゛\と泣いた。
楊彪の妻が、帰つてゆくと、彼女は病人のやうに、室へ籠つてしまつた。その夜も、折悪しく、彼女の良人は夜更けてから、微酔をおびて帰つて来た。
「どうしたのかね。おい、真(ま)つ蒼(さほ)な顔してをるぢやないか」
「知りません!うつちやツておいて下さい」
「又、持病か。はゝゝ」
「……」
夫人は、背を向けて、しくしく泣いてばかりゐた。
四、五日すると、李傕司馬の邸(やしき)から、招待があつた。郭夫人は、良人の出先に立ち塞がつて、
「およしなさい。あんな所へ行くのは」
と、血相を変へて止めた。
「いゝぢやないか。親しい友の酒宴に行くのが、なぜ悪いのか」
「李司馬だつて、あなたを心で怨んでゐるにちがひありません」
「なぜ」
「なぜでも」
「分らんやつぢやな」
「今に分りませう。古人も訓(をし)えてをります。両雄ならび立たずです。その上、個人的にも、面白くない事が肚(はら)にあるんですもの。——もし貴郎(あなた)が、酒宴の席で、毒害でもされたら私たちは何(ど)うなりませう」
「はゝゝゝ。何かおまへは、勘ちがひしてるんぢやろ」
「何でもようございますから、今夜は行かないで下さい。ね、あなた、お願ひですから」
果(はて)は、胸に縋(すが)つて、泣かれたりしたので、郭汜も、振り踠(も)ぎつても行かれず、遂に、その夜の招宴には、缺席(ケツセキ)してしまつた。
——と、次の日李傕の邸からわざ/\料理や引出物を、使(つかひ)に持たせて贈つて来た。厨房を通して受け取つた郭汜の妻は、わざとその一品の中に、毒を入れて良人の前へ持つて来た。
郭汜は、何気なく、
「美味(うま)さうだな」
と、箸を取りかけると、夫人はその手を振り退(の)けて、
「大事なお体なのに、他家(よそ)から来た喰物(シヨクモツ)を、毒味もせずに召上がるなんて、飛んでもない」
と、その箸をもつて、料理の一品をはさんで、庭面(にはも)へ投げ遣ると、そこにゐた飼犬が、跳びついて喰べてしまつた。
「……やつ?」
郭汜は驚いた。見てゐるまに、犬は独楽(こま)のごとく廻つて、一声絶叫すると、血を吐いて死んでしまつた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 毒と毒(四)(2024年6月18日(火)18時配信)