第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 毒と毒(一)
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楊彪の妻は怪しんで、良人を揶揄した。
「あなた。どうしたんですか、いつたい今日は」
「なにが?」
「だつて、常には、私に対して、こんなに機嫌をとるあなたではありませんもの」
「あはゝゝ」
「かへつて、気味が悪い」
「さうかい」
「何かわたしに、お頼み事でもあるんでしよ、きつと」
「さすがは、おれの妻だ。実はその通り、おまへの力を借りたい事があるのだが」
「どんな事ですか」
「郭汜の夫人は、おまへに負けない嫉妬(やきもち)やきだといふはなしだが」
「あら、いつ私が、嫉妬なんぞやきましたか」
「だからさ、おまへの事ぢやないよ。郭汜夫人が——と云つてゐるぢやないか」
「あんな嫉妬深い奥さんと一緒にされてはたまりませんからね」
「おまへは良妻だ。わしは常に感謝してゐる」
「噓ばかり仰つしやい」
「冗談は止めて。——時に、郭汜の夫人を訪問して、ひとつ、おまへの口先であの人の嫉妬をうんと焚きつけてくれないか」
「それが何の為(ため)になるんですか。他家の奥さんを悋気(リンキ)させる事が」
「国家の為になるのだ」
「又、御冗談を」
「ほんとにだ。——ひいては漢室の御(おん)為(ため)となり、小さくは、おまへの良人楊彪の為にもなる事なんだから」
「解りません。どうしてそんなつまらない事が、朝廷や良人の為になりますか」
「……耳をお貸し」
楊彪は、声をひそめて、君前の密議と、意中の秘策を妻に打明けた。
楊彪の妻は、眼をまろくして、初めのうちは、ためらつてゐたが良人の眼を仰ぐと、刮(くわつ)と、恐ろしい決意を示してゐるので、
「ええ。やつてみます」
と、答へた。
楊彪は、圧(お)し被(かぶ)せて、
「やつてみるなんて、生ぬるい肚(はら)ではだめだ。やり損じたら、わが一族の破滅にもなる事。毒婦になつたつもりで、巧くやり終(をは)せて来い」
と、云ひ含めた。
翌る日。
彼の妻は、盛装を凝(こら)し、美々しい輿(くるま)に乗つて、大将軍郭汜夫人を訪問に出かけた。
「まあ、いつもお珍しい贈り物を戴(いたゞ)いて」
と、郭汜夫人は、まず珍貴な音物(インモツ)の礼を云つて、
「よいお召(めし)服(もの)ですこと」
と、客の着物や、化粧ぶりを褒めた。
「いゝえ、わたくしの主人なんかちつとも衣裳などには関(かま)つてくれませんの。それよりも、令夫人のお髪は、お手入がよいとみえて、ほんとにお綺麗ですこと。いつお目にかゝつても、心からお美しいと思ふ御方は、世辞ではございませんが、さうたんとは御座いません。……それなのに、男といふものは」
「オヤ、貴女は、わたくしの顔を見ながら何で涙ぐむのですか」
「いゝえ、べつに……」
「でも、をかしいでは御座いませんか、何か理(わけ)があるのでせう。隠さないで、はなして下さい。私に言へない事ですか」
「……つい、涙などこぼして、夫人(おく)様(さま)おゆるし下さいませ」
「どうしたんです一体」
「では、おはなし申しますが、ほんとに、誰にも秘密にして下さらないと」
「ええ、誰にも洩らしはしません」
「実はあの……夫人(おく)様(さま)のお顔を見てゐるうちに、何も御存じないのかと、お可哀さうになつて来て」
「え。わたしが、可哀さうになつてですつて。——可哀さうとは、一体、何(ど)ういふわけで。……え?え?」
郭夫人は、もう躍起になつて、楊彪の妻に、次のことばを強請(せが)みたてた。
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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。
次回 → 毒と毒(三)(2024年6月17日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。