第一回 → 黄巾賊(一)
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呂布は牙を嚙んで
「やいつ、開けろ、城門を開けをらんか。うぬ、憎ツくい賤民め、どうするか見てをれ」
と、口を極めて、罵つてみたが、どうする事もできないのみか、城壁の上の田氏は、
「もうこの城は、お前さんの物ではない。曹操様へ献上したのだ。〔さもし〕い顔をしてゐないで、足元の明るいうちに、何処(どこ)へでも落ちておいでなさい。——いや、何ともお気の毒なことで」
と愈々、嘲弄を浴びせかけた。
利を嗅(か)いで来た味方は、又利を嗅いで敵へ去る。小人を利用して獲た功は、小人に裏切られて、一挙に空しくなつてしまつた。呂布は、散々に罵り吠えてゐたが、結局、そこで立ち往生してゐれば、曹軍に包囲されるのを待つてゐるやうなものである。ぜひなく定陶(テイタウ)(山東省・曹州東南)をさして一(ひと)先(ま)づ落ちて行つた。
かくと聞いて、陳宮は
「田氏を用ひて、彼に心をゆるしてゐたのは、自分の過ちでもあつた」
と、自責に駆られたか、急遽、城の東門へ迫つて、内部の田氏に交渉し、呂布の家族たちの身を貰ひうけて、後から呂布を追ひ慕つて行つた。
城地を失ふと、途端に、従ふ兵も際立つて減つてしまふ。
(この大将に従(つ)いてゐたところで——)
と、見(み)限(き)りをつけて四散してしまふのである。田氏は田氏ひとり在るのみではなかつた。無数の田氏が離合集散してゐる世の中であつた。
だが、ひとたび敗軍を喫して漂泊の流軍に転落すると、大将や幕僚は、結局さうなつてくれたはうが気が安かつた。何十万といふやうな大軍は養ひかねるからである。いくら掠奪して歩いても、一村に千、二千といふ軍がなだれこめば、忽ち村の穀倉は、〔いなご〕の通つた後みたいになつてしまうふ。
呂布は、一先づ定陶まで落ちてみたが、そこにも止ることができないで
「この上は、袁紹を頼つて、冀州へ行つてみようか」
と、陳宮に相談した。
陳宮は、さあ何(ど)うでせう?と首をかしげて、すぐ賛成しなかつた。呂布の人気は、各地に於て、あまり薫(かんば)しくない事を知つたからである。
で、一応、先に人を派して、それとなく袁紹の心を探らせてみてゐるうちに、袁紹は伝へ聞いて謀士の審配へ意見を徴してゐた。
審配は、率直に答へた。
「およしなさい。呂布は天下の勇ですが、半面、豺狼(サイラウ)のやうな性情を持つてゐます。もし彼が勢力を持ち直して、兗州を奪(と)り回(かへ)したら、次には、この冀州を狙つて来ないとは限りません。——むしろ曹操と結んで、呂布のごとき乱賊は殺したはうが御当家の安泰でせう」
「大きにさうだつた」
袁紹は、直(たゞち)に、部下の顔良に五万餘の兵をさづけ、曹操の軍に協力させ、曹操へ親善の意をこめた書を送つた。
呂布はうろたへた。
逆境の流軍は〔あて〕なく歩いた。
「さうだ。近頃、新しく徐州の封をうけて、陶謙の跡目をついで立つた劉玄徳を頼つてゆかう。……どうだらう陳宮」
「さうですな。徐州の新しい太守は、世間の噂がよいやうです。先さへ吾々を容れるものなら、徐州を頼るに越したことはありません」
そこで、呂布は、玄徳のところへ使(つかひ)を立てた。
劉備は、自分の領地へ、呂布一族が来て、仁を乞ふと聞くと、
「あはれ。彼も当世の英雄であるのに」
と、関羽、張飛をつれて、自ら迎へに出ようとした。
「とんでもない事です」
家臣の糜竺は、出先を遮つて、極力止めた。
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次回 → 愚兄と賢弟(三)(2024年6月11日(火)18時配信)