第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 牛と「いなご」(六)
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出稼ぎの遠征軍は、風のまゝにうごく。蝗(いなご)のやうに移動してゆく。
近頃、風のたよりに聞くと、曹操の古巣の兗州には、呂布の配下の薛蘭(セツラン)と李封(リホウ)といふ二将がたて籠つてゐるが、軍紀はすこぶる紊(みだ)れ兵隊は城下で掠奪や悪事ばかり働いてゐるし、城中の将は、苛税をしぼつて、自己の享楽にばかり驕り耽つてゐるといふ。
「今なら討てる」
曹操は、直感して、軍の方向を一転するや、剣をもつて、兗州を指した。
「われわれの郷土へ帰れ!」
颷兵(ヘウヘイ)は、またゝくまに、目的の兗州へ押寄せた。
李封、薛蘭の二将は
「よもや?」
と、疑つてゐた曹軍を、その目に見て、驚きあわてながら、駒を揃へて、討つて出た。
新参の許褚は、曹操のまへに出て、
「お目見得の初陣に、あの二将を手捕りにして、君前へ献じませう」
と云つて、駆け出した。
見てゐるまに、許褚は、薛蘭、李封の両人へ闘ひを挑んで行つた。面倒と思つたか、許褚は、李封を一気に斬つてしまつた。それに怯(ひる)んで、薛蘭が逃げ出してゆくと、曹操の陣後から、呂虔(リヨケン)がひようツと一箭を放つた。——箭は彼の首すぢを射ぬいたので、許褚の手を待つ迄(まで)もなく、薛蘭も馬から転げ落ちた。
兗州の城は、さうして、曹操の手に還つた。が、曹操は、
「この勢で濮陽も収めろ」
と、呂布の根城へ逼(せま)つた。
呂布の謀臣陳宮は、
「出ては不利です」
と、籠城をすゝめたが、
「ばかを云へ」
と、呂布はきかない。
例の気性である。それに、曹操の手心もわかつてゐる。一気に撃滅して、兗州もすぐ取返さねば百年の計を誤るものだと、全城の兵を繰出して、物々しく対陣した。
呂布の勇猛は、相変らずすこしも老いてゐない。むしろ年と共にその騎乗奮戦の技は神(シン)に入つて、文字どほり万夫不当だ。まつたく戦争する為(ため)に、神が造つた不死身の人間のやうであつた。
「おうつ、自分にふさはしい好敵手を見つけたぞ」
許褚は、見事なる敵将の呂布を見かけると、自分までが甚だしく英雄的な精神を昂(たか)められた。
「いで、あの敵を!」
と、目がけてかゝつた。
だが、呂布は、彼如きを近づけもしないのである。許褚は、歯がみをして彼の前へ前へと、しつこくつけ廻つた。そして戟を合せたが、勝負はつかない。
そこへ、悪来典韋が、
「助太刀」
と、喚きかゝつたが、この両雄が、挟撃しても、呂布の戟にはなほ余裕があつた。
折から又、夏侯惇其(その)他(た)、曹操幕下の勇将が六人もこゝへ集まつた。——今こそ呂布を遁(にが)すなとばかりにである。——呂布は、危険を悟つたか、さつと一角を蹴破るや否や、赤兎馬に鞭をくれて逃げてしまつた。
わが城門の下まで引揚げて来た。だが、呂布はあツと駒を締めて立ち竦(すく)んだ。こは抑(そも/\)如何(いか)に?——と眼をみはつた。
城門の吊橋が跳ね上げてあるではないか。何者が命令したのか。彼は、怒りながら、大声で、濠(ほり)の向うへ呶(ど)鳴(な)つた。
「門を開けろ。——橋を下ろせ!ばかつ」
すると、城壁の上に、小兵な男が、ひよツこり現れた。曽(かつ)ては呂布のために、曹操の陣へ、反間の偽書を送つて、曹軍に致命的な損害を与へた土地の富豪の田氏であつた。
「いけませんよ。呂大将」
田氏は歯を剝(む)いて城壁の上から嘲笑を返した。
「きのふの味方も、けふの敵ですからね。わたくしは初めから利のあるほうへ附くと明言してゐたでせう。元々、武士でも何でもない身ですから、けふからは曹将軍へ味方することに極(き)めました。どうもあちらの旗色のはうが良ささうですからな。……へゝゝゝ」
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次回 → 愚兄と賢弟(二)(2024年6月10日(月)18時配信)
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