第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 牛と「いなご」(五)
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まるで材木か猪(いのこ)でも引つぱるやうに、熊手や鈎棒(かぎぼう)でわい/\と兵たちが許褚の体を大地に摺つて連れて来たので
「ばかつ。縄目にかけた人ひとりを捕へて来るに、何たる騒ぎだ」
と、曹操は叱りつけた。
そして又、部将や兵に
「貴様たちには、およそ人間を観る目がないな。士を遇する情もない奴だ。——はやくその縄を解いてやれ」
と、案外な言葉であつた。
それもその筈。曹操はこの許褚と悪来とが、火華をちらして夕方に迫るまで闘つてゐた一昨日の有様を、篤(とく)と実見してゐたので、心のうちに
(これはよい壮士を見出した)
と早くも、自分の幕下に加へようと、目算を立てゝゐたからであつた。
曹操から、俺の敵と睨まれたら助からないが、反対に彼が、この男はと見込むと、その寵遇(チヨウグウ)は、どこの将軍にも劣らなかつた。
彼は、士を愛することも知つてゐたが、憎むとなると、憎悪も人一倍強かつた。——許褚の場合は、一目見た時から、愉快なやつと惚(ほ)れこんで、
(殺すのは惜しい。何とかして、臣下に加へたいが)
と、考へてゐたものだつた。
「彼に席を与へろ」
と、曹操は、引つ立てゝ来た部下に命じ、自ら寄つて、許褚の縄目を解いてやつた。
思はぬ恩情に、許褚は意外な感に打たれながら、曹操の面を見まもつた。曹操は、改めて彼の素姓をたづねた。
「譙県の生れで、許褚といひ、字(あざな)は仲康(チウカウ)といふ者です。これと云つて今日まで、人に語るほどの経歴は何もありません。——なぜ山寨に住んでゐたかといへば、この地方の賊害に災ひされて、わたくし共は安らかに耕農に従事してゐられないのみか、食は奪はれ、生命も常に危険にさらされてゐます。——で遂(つひ)に一村の老幼や一族をひきつれ山に砦(とりで)を構へて賊に反抗してゐたわけです」
許褚は、さう告げてから、その間にはこんな事もあつたと苦心を話した。
賊軍の襲来をうけても自分の抱へてゐる部下は善良な土民なので彼等のやうに武器もない。そこで常に砦のうちに礫を蓄へておき、賊が襲(よ)せて来ると礫を投げて防ぐ。——自慢ではないが、私の投げる礫は百発百中なので賊も近ごろは怖れをなし、餘り襲つて来なくなりました。
又、或る時は——
砦の内に米が無くなつてしまひ何とかして米を手に入れたいがと思ふと、幸(さいはひ)、二頭の牛があつたので、賊へ交易を申しこみました。すると賊のはうでは、すぐ承知して米を送つて来ましたから、即座に牛を渡しましたが、賊の手下が牛を曳(ひ)いて帰らうとしても牛はなか/\進まず、中途まで行くと暴れて私たちの砦へ帰つて来てしまひます。
そこで私は、二頭の巨牛(おほうし)の尻尾を両手につかまへ、暴れる牛を後(うしろ)歩きにさせて賊の屯の近所まで持つて行つてやりました。——すると賊はひどく魂消えて、その牛を受取りもせず、翌日は麓の屯まで引払つて何処(どこ)かへ立ち退(の)いてしまひました。
「あはゝゝゝ、すこし自慢ばなしでしたが、まアそんなわけで、今日まで、一村の者の生命を、どうやら無事に守つてきました。——けれど、貴軍の力で、賊を掃蕩してくれれば、もはや私といふ番人を失つても、村の老幼は、田畠へ帰つて鍬(くわ)を持てませう。思ひ遺(のこ)すことはありません、将軍、どうか首を刎ねて下さい」
許褚は、悪〔びれ〕もせず、始終、笑顔で語つてゐた。曹操は、死を与へる代りに、恩を与へた。勿論許褚はよろこんで、その日から彼の臣下になつた。
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次回 → 愚兄と賢弟(一)(2024年6月8日(土)18時配信)